砂礫の王国(サンプル)




(7〜12ページ)

 長い石造りの廊下を歩いて行く。天井が高く取られたその場所は、足を進める度に自分の履いた革靴が床を叩く音が響いた。通っていた時はこんなに静かな場所ではなかったはずだが、と思い返して、ふと今が夏期休暇期間であったことに気が付く。学生という身分を脱して既に十年近くが経過しようとしている今、門倉にとって夏休みなどという単語は記憶の彼方にしかなかった。
 目当ての部屋の前までたどり着くと、呼吸を整え、額の汗をハンカチで拭ってから、手の甲で二度ノックした。一呼吸ほど合間があってから聞こえてきた声は聞き覚えのあるものだった。数日前に何度か電話でやり取りをしていたが、直接聞く声はその時とはまた違って聞こえた。
「失礼します」
 ドアノブに手を掛けて、ゆっくりとそれを回す。薄く開けたドアの隙間からひやりとした空気が流れ出て、門倉の肌に触れた。
「おお、元気だったか」
 ドアの向かいになるように設置された机に向かっていた男が、モニターから顔を上げて門倉の方を見た。ご無沙汰しています、と挨拶すると、男は笑って、まあ掛けなさいと椅子を勧めてくれた。
 机の前には大きなテーブルが置かれており、授業で使われていると思われる本が積み上がっていた。おそらくここで質問に来た学生の指導をしているのだろう。
「先生もお変わりなく」
「はっはっは、歳は取ったがね。君はどうだ。もう中堅社員だろう」
 椅子から立ち上がった男は、豪快に笑いながら、門倉の座る椅子の向かいに移動した。
「おかげさまで忙しく過ごしています」
「君はここにいる時から手の掛からない学生だったな。何でもそつなくこなす」
「そんな事はありません。社会人になって、いろいろ勉強しました」
「正直君が私に連絡してきたときは、一体何の用かと怪しんでしまったよ。また無理難題を言われるのかと思ってびくびくしたもんだ」
「ご冗談を。しかし、そんな私に連絡を下さったと言う事は、有望な人材が見つかったと言う事でしょうか」
 さらりと本題に入ろうとする門倉に、男は苦笑した。
「懐かしい昔話をするつもりはないということだな。まあいい。君が出した条件に合致するような学生はここ数年見ないんだがね。今年はいたんだ。君はラッキーだったな」
「ほう?」
 今度は門倉が目を細めた。門倉も自分で提示した条件ながら、そうそうあの条件に合う人材など見つかるはずがないと思っていたからだ。ましてや学生だ。一体どんな人間かと、俄然興味が湧いてきた。
「それで、どんな学生なんですか」
「気になるか?」
 興味を示した門倉に、男はニヤリと笑った。
「ええ、教授がそこまで言うのですから、一度会ってみたいものです」
「そうだろうな。だが、残念ながら今日は来ない。もし会ってやっても良いというのであれば、君の所へ行くよう伝えてもいいが」
「それで構いません。上司にはアルバイトの学生を探していることは伝えてありますから」
「そうか。それならそう伝えよう。桜井という男だ。簡単に説明すれば、大学の成績はぱっとしないな。並くらいか。私のゼミに参加しているが、出席率もそれなりだ」
 門倉はぴくりと頬を引きつらせた。男の話からは、その学生が門倉の提示した条件に合致している所など皆無に聞こえたからだ。自分をからかっているのか?と言いたくなるのをぐっと堪え、それで、と話の先を促す。
「だが、プログラミングのセンスはある。そして、何よりネットワークに興味があるらしくてな。この前の講義で出した課題の回答は見事だった」
「……その課題、見せていただいても?」
「構わんよ」
 男は立ち上がると、執務机の上に置かれたコンピュータを操作し、門倉に向かって手招きをした。それに従いモニタの前に行くと、課題と思われるテキストファイルが開かれている。
 無機質な文字が並ぶそれを目で追っていくうちに、門倉は自分の口がいつの間にか笑みの形を作っている事に気が付いた。まだそれほどコンピュータネットワークが発達していないこの世の中において、彼が考察した内容はあまりにも突飛すぎていた。だが、単なる夢物語としてではなく、しかるべき根拠をもって書かれているそのレポートを見て、門倉は男がこの学生を推薦しようと考えた理由を悟った。
「どうかね?」
「まだ検討を掘り下げる余地はありますが、目の付け所は鋭い。さすがです」
「君ならそう言うと思っていたよ」
 まだまだ人を見る目はありそうだなと笑う男に、門倉は言葉が出なかった。
「今すぐにでも会って話をしたいくらいだ。その学生、桜井でしたか?なるべく早くこちらへ連絡するように伝えて下さい」
「そう急くな。連絡はしてみるが、実際にアルバイトをする気があるかどうかは分からんぞ。興味があることには食いつくが、興味を持ってもらえるかどうかは君次第だな。なんせ、今見せた課題の出来は大変素晴らしかったが、他の課題の成績は散々だったからな」
「興味を持たせてみせますよ」
 自信たっぷりにそう言い放った門倉を見て、男はただ笑うばかりだった。


 それから数日後、待ちに待った桜井からの連絡が来た。大学のメールアドレスだろうか、見慣れたドメインからのメールには、アルバイトの内容など詳しい話を聞かせて欲しいという旨が書かれていた。
 門倉は上司に話を通し、面接の日を設定し、その日程を桜井に連絡した。都合が合うだろうかと不安だったが、すぐに了解の返事が来て、門倉は胸をなで下ろした。
 それから面接当日までの数日間は、これほどまでにわくわくした気分になった事がここ数年のうちにあっただろうか、というほど、門倉にとって待ちきれない数日間となった。
 面接の日、桜井は時間より少し早めにやってきた。上司と門倉の二人が並んだ机の前にやって来た桜井は、見た目だけで言えば本当にどこにでもいそうな男子学生だった。緊張しているのか、少々垂れ目がちの目が落ち着きなく辺りを見回している。まだ就職活動もしたことがないだろうに、いきなりこんな所へ面接を受けに来いと言われれば、そうなるのも無理はない。
「桜井君だったかな」
「はい、桜井雅宏といいます」
「君の事はゼミの教授から訊いている。単刀直入に言おう、この会社でプログラマーとしてアルバイトをする気はないか?」
「先生から話を聞いているのであれば、僕のプログラミング能力がどれくらいかって事も知ってるんですね」
「ああ。大体はな。課題も見せてもらった。学生にしては綺麗なプログラムだったよ。アルゴリズムも理解しているようだったし、処理も無駄なく、スマートだった」
「あの程度なら、他にも書ける学生はいたはずです。僕は授業に対して真面目じゃないし、大学だって気分によって行ったり行かなかったりする事もあります。そんな僕にどうしてこんなうまい話が来るのか、不思議で仕方がないんです」
 桜井が心底不思議そうに言うので、門倉は笑い出しそうになった。桜井はおそらく、提出した課題の回答の一つが教授の目にとまり、そして門倉の目にとまったことを知らない。だからこそ、人並みな自分がどうして、と思っているのだろう。


(中略)


(53〜59ページ)

指定された場所は、アルゴンソフト社の本社ビルだった。立派な高層ビルを前に、桜井はごくりとつばを飲み込む。緊張しながら受付で門倉との約束だということを告げると、あっさりと最上階にある社長室へと案内された。
 両開きの重厚な扉を前には、不思議なことに秘書も誰もいなかった。二度ノックすると、入りたまえ、と返事が返ってくる。その声はまさしく、門倉のものだった。
「失礼します」
 扉の先は広い部屋だった。端の方に打ち合わせ用の応接セットが置かれている。そして中央に置かれた業務机の前に、門倉は座っていた。白いスーツに身を包み、頭髪を左右で違う色にし、目をサングラスで覆ったその姿は、桜井の知っている門倉というよりも、アルゴン社のページで見た印象に近い。
「良く来たな。座ってくれ」
 椅子から立ち上がった門倉は、桜井を応接セットの方へ行くよう促した。だが、桜井は何故かその場から動くことが出来なかった。
「桜井、どうした?」
 見た目は大きく変わっても、その声は門倉のものだった。その声を聞いた途端、桜井の中で何かが弾けた。
「……どうして、今更僕を呼んだ?」
「……桜井、僕は」
「いや、僕が聞きたいのはそれじゃない。どうしてあの時何も言わずに姿を消したんだ?」
 門倉は何かを言いかけて、そのまま口をつぐんだ。
「……仕方がなかった、と言っても君は納得しないだろうが、理由は言えない」
「僕のことはどうでも良かったというのか? 君の事を友人だと、仲間だと思っていたのは僕だけだったのか?」
 最後は叫びに近かった。門倉は応接セットに座って話をすることを諦めたのか、桜井の方へとまっすぐ進み、そして正面に立って桜井を鋭い視線で睨み付ける。
「拒んだのは君の方だ。僕の申し出を断ったのは君の方だっただろう」
「あの時僕はまだ学生だった。それをいきなり会社を興すだなんて非現実的な話に頷けるわけがない」
「いいか、パラダイムはあのまま開発を進めていればどのみち行き詰まっていた。僕と君だけで出来る事には限界があり、夢半ばで挫折していたはずだ。だが、人を集めれば不可能だって可能に出来る」
「君がそんな事を考えていたとは思わなかったよ、門倉。君の事を天才だと思っていたのは間違いだったと言う事か」
 桜井の言葉に、門倉は不敵な笑みを浮かべた。それを見て、こんな風に笑う男だったか、と桜井は心の中に何かが引っかかりを感じた。
「僕は天才だ。それは認めよう。だが、人一人の力と時間には限界がある。その限界を超える為に、僕は会社を興し、社員を集めてパラダイムを完成させた。あれは早く完成させなければならなかったのだ」
「完成させただって!? あのパラダイムをか?」
「そうだ。見たいか?」
 ニヤリと門倉が笑い、くるりと踵を返したと思えば、先ほどまで座っていた中央の執務机へと戻っていった。そしてすぐに室内が暗くなり、天井から大型のモニターが下りてくる。
 モニターにはシステム画面が映し出されていた。アルゴンソフト社のオペレーティングシステムだ。プログラムの呼び出し画面から門倉はパラダイムXと書かれたリストをクリックし、プログラムをスタートさせた。
 パラダイムXというロゴが浮かび上がり、続いてどこかのフロントのような映像に切り替わった。中央に立つ女性の顔が大写しにされ、人が話しているのと何ら変わりない声ですらすらと案内を始めた。
「これは……」
 精巧な映像データに音声データ。どちらもまだ現在のネットワークに乗せるにはサイズが大きすぎる代物だ。
「もちろんこれは社内サーバと社内の回線で動かしているだけだ。まだ一般には公開していない。だが、もうじきモニターテストを始めることになっている」
「こんな大容量データ、一般回線に流せばそれだけでパンクしてしまう」
「そうだ、一般の回線など貧弱すぎて使い物にならない。だが、専用のデジタル回線を張り巡らせた天海市ならそれが可能になる。あの街はパラダイムXの実験場だ。実験が上手く行けば、より多くの人がパラダイムXにアクセスできるよう回線の強化を図り、デジタル回線網を拡大していく」
 まさに僕が理想とした世界が自分の手によって生まれようとしている、と語る門倉は心底楽しそうだった。だが、そんな門倉と対照的に、桜井は苛立ちが募る一方だ。
 ぎり、と唇を噛むと、門倉がそれに気づき、どうしたのかと問うてきた。
「何をそんなに苛立っているんだ、桜井。君の夢でもあるだろう? だから君を呼んだんだ。まだパラダイムXは完成形ではない。君にも手伝ってもらいたいんだ」
「僕に手伝えることなんか、もう何もないだろう。ここまで作り上げた君だ、この先も僕がいなくたって」
「駄目だ。君がいなければ駄目なんだ」
 門倉はスイッチを切り替え、モニターを格納すると再び桜井の元へ近づいてきた。
「君が何も言わずに姿を消した理由を教えてくれるまでは、僕は君の誘いには乗らない」
「桜井、それは」
「言えないんだろう?それならば諦めてくれ。僕は僕なりに、今の生活に満足している」
「……ハッキングをして食い扶持を稼ぐ生活にか?」
 その声に、きゅうと心臓が縮み上がった気がした。咄嗟に門倉から視線を外すと、門倉は笑った。
「図星だな。まあ、君のハッカーとしての腕はなかなかのようだが」
「……どうして知っている?」
 桜井がハッカーとして活動している事、そしてその腕がそれなりであることを。
「気づかなかったのか? 数日前、逆ハッキングされたことがあっただろう? あれは僕だよ、桜井。プログラムのセンスも、ハッキングのセンスも、君は僕には勝てない。分かっていたはずだ」
「あれはわざとやったのか、門倉。君の力を僕に見せつけるために」
「そうだ」
 余りに人を馬鹿にした門倉の態度に、桜井はこれ以上我慢出来なくなった。怒りにまかせるがまま、門倉の胸元を掴み、締め上げる。その衝撃で門倉のループタイがぶらりと揺れたが、当の門倉は顔色一つ変えずに桜井を見ていた。
「どうした桜井。これで終わりか」
「くっ……!」
 思い切り睨んでも、まったく怯むことのない門倉と対峙していると、本当にこれは桜井の知る門倉なのかと疑いたくなる。
「気が済んだら下ろしてくれないか? さすがにこのままでは苦しい」
 門倉の要望に応えるように、桜井は襟元から手を離した。乱れた襟元を整えた門倉は、今度は逆に桜井の襟元に手を掛ける。ぐい、と首を掴まれ、その指が皮膚にめり込んでいくのが分かった。
「なに、を」
「素直に従ってくれると思っていたが、残念だよ桜井。『この男』は特に君の事を気に掛けていたというのにな」
「この男……?」
 何を言っているんだ、と言いたかったが、締め上げられた喉がそれを許さない。呼吸すらままならない中で必死にもがいていると、くくくと門倉が笑った。
「君はこの男のことが好きだったんだろう? 違うか? その才能に心酔し、一緒に夢を見ていたはずが、あっさり見捨てられたことに腹を立てているんだろう」
「ち、が、う、そんな、ことは……」
「一言、また一緒に働きたいと言うだけでいい。それだけでこの男は喜び、君のために何でもしてくれるだろう。君が過去に望んだことも、何でも」
「な、なんの、話、を」
 しているのだ、と最後まで言葉を発することは出来なかった。頭に酸素が回らず、意識が急速に薄れていく。ああ、このまま門倉に殺されるのか、と考えながらも、一方では最後の力を振り絞り、自分の首を絞めている手を掴んだ。
 途端に、首の戒めが解かれた。どさりと桜井はその場に崩れ落ちる。流れ込んできた大量の酸素に咽せながら、ぜいぜいと呼吸を整えていると、門倉は呆然とした表情で桜井を見下ろしていた。
「か、門倉?」
「僕は、今何をしていた?」
 震える声でそう言う門倉の顔は、真っ青になっていた。

(以下略)