静かな場所(サンプル)



※本作品は、「ペルソナ3」の内容をベースにした話です。
後日談が収録されている「ペルソナ3 フェス」にて明らかになった設定などは本作品中には使用しておりませんのでご注意下さい。


 日曜日の朝。
 明彦はぼんやりと机に向かっていた。新学期も始まり既に二月が立とうとしている今、受験生としてそろそろ本腰を入れて勉強をしなければならない。特別課外活動部に所属しているからといって、本業である勉強の手を疎かにすることだけは避けたかった。
 それでも、どうしても勉強が進まないときもある。
 部活も既に引退し、残り少ない高校生活を「受験生」として過ごしていかねばならないというのに、数式は頭に入ってこないし、英単語を唱えても右へ左へと抜けていく。
「駄目だ」
 明彦は握っていたシャープペンシルを置いた。
 外は良い天気だった。雲一つ無い青空は高く、秋空という言葉がぴたりと当てはまる。窓を開ければ、程よい風がカーテンを揺らす。
 気晴らしにトレーニングでもするか、と傍らに置いてあった鉄アレイを手に取る。リズミカルにそれを上げ下ろししていると、楽しくなってくる、はずだった。
 ところが、今日はトレーニングすら明彦の気を晴らす事が出来なかった。たっぷり三十分腕を動かし続けても、全くやる気が出ない。はぁ、と溜息を吐いて、鉄アレイを元の場所へ戻す。
 今日も順平は病院だ。いつ帰ってくるのか検討もつかない。
「早く帰ってこい…」
 ばたりとベッドに突っ伏して、呟いた。そのままごろりと寝返りを一回打って、再度起きあがると、とぼとぼと部屋を出た。一人で部屋にいるよりもラウンジにいる方が気が紛れると思ったからだ。
 階下に降りてみると、残念ながらラウンジには誰もいなかった。少し気落ちしながらも、一人掛けのソファーに腰を下ろす。そして、持ってきた愛用のグローブを磨き始める。
 磨き布で丁寧に磨きながら、順平の事を考える。あんなに明彦の事を好きだ好きだと言っていたのに、手のひらを返したようなこの仕打ちに腹が立たないかと言えば嘘になる。一発殴っても文句を言われる筋合いは無いだろうとすら思ってしまう。
「先輩、凄い迫力ですね」
 隣から声がしてがばっと顔を上げると、そこにはゆかりが座っていた。
「あ、ああ、岳羽か…」
 何時の間に、と言えば、少し前からいたんですけど、先輩のグローブ磨きの迫力に声掛けられなくて、と言う。
「そんなに凄い迫力だったか…?」
「ええ。親の敵〜!みたいな感じ?思いっきり眉間に皺寄ってましたよ」
 何かあったんですか?というゆかりに、いや、勉強が思うように進まなくてな、と嘘をつく。へぇ、先輩でもそんなことがあるんですね、と何故か感心したように言って、ゆかりはソファーから立ち上がった。
「何処か行くのか?」
「天気もいいんで、買い物でも行こうかなーって。先輩は、何か予定とか無いんですか?」
 返事の代わりに首を横に振ってみせると、グローブ磨きも程ほどにした方が良いですよ、と言い残してゆかりは寮を出て行った。
 確かにこんな良い天気の日に室内に閉じこもっているのは勿体ない。たまには走り込みに行くか、とグローブを持って立ち上がると、部屋に戻ってトレーニングウェアに着替えた。そして寮を飛び出す。
 規則正しい呼吸と、地面を蹴る足音のみが聞こえる。頬に当たる風が心地よく、何処までも走って行けそうな気がする。ランナーズハイになっているのかもしれない。
 寮を出てムーンライトブリッジを渡りポートアイランドへ。ポロニアンモールと病院の脇を抜けて月光館学園の前へ抜けるコースだ。病院の傍を通るときにちらりと建物を見てしまうのは、まだ雑念が振り切れていない証拠だと、明彦は僅かにスピードを上げた。
 高等部校舎の門まで来て、ようやく足を止めた。ゆっくりとポートアイランド駅まで歩いてクールダウンをする。さすがに疲れていたのと、喉が渇いていたので途中でスポーツ飲料を買い、駅前のベンチに腰掛けて、その蓋を開けた。プシュ、と気が抜ける音が聞こえた次の瞬間には、中の液体は明彦の喉に流れ込んでいる。
 一気に飲み干してようやく落ち着いた。海に近いこの駅は微かに潮の匂いがする。普段学校に通学しているときは何も感じなかったのにな、と明彦は思った。
 暫くベンチに座ってぼんやりしていたが、腹も減ってきたので帰ろうとベンチから立ち上がったその時、目に飛び込んできた人物に我が目を疑った。
「真田サンじゃないっすか。どうしたんすか、こんなとこで」
 明彦を見つけるや否や、手を振りながら駆け寄ってきた人物は紛れもなく順平本人で、明彦は自分の運の強さに驚くしかなかった。
「トレーニングでもしようと思って、寮から走ってきた」
「寮から!?マジで!?」
「お前、いつも俺が走っている事くらい知ってるだろう?」
 そうでしたっけ、とわざととぼけるのも順平らしい。そして、更に拍車を掛けるように、順平の腹の虫が大音量で鳴いた。
「そうだ、メシ食おうと思って駅まで来たんだった。真田サン、メシ食べました?」
「いや、まだだ。これから戻って食べようと思ってた所だが」
「そんなら一緒に食べに行きません?」
 その申し出は今の明彦にとって非常に魅力的だった。何せ、ここ数ヶ月の間は二人で何処かへ行くことなど皆無だったのだから。
「分かった。行こう」
「うっす!そうと決まれば巌戸台駅まで行って『海牛』か『はがくれ』で!」
 二人はモノレールに乗ると、巌戸台駅へと向かった。休日の電車は程よく空いていて、順平は空席を見つけるとそこに座ったが、明彦は座らずに順平の前に立った。
「空いてますよ?」
 自分の隣の席をぽん、と叩いて順平が座るよう促したが、明彦はどうせすぐ着くから、と言ってそれを断った。つり革に捕まって顔を上げると、窓の向こうに海が見える。屋久島で見た海には及ばないが、太陽の光を受けて波が輝く様は綺麗だ。
「屋久島は良かったな」
「そうっすね。ナンパ勝負じゃまんまとアイツに持って行かれたけど…ってかアイギスだったけど」
「また行きたいな」
 お前と一緒に、という言葉は飲み込んだ。勿論順平はそんなことには気づかず、桐条先輩にお願いすればまた連れてってもらえるかも、と適当なことを言っている。
「チドリ、連れてってやりたいな…」
 ぼそり、と順平の口からこぼれた言葉を、明彦は聞いてしまった。すぅっと背筋が冷えて、続いてかぁっと全身が熱くなる。
 もし、丁度自分たちの周りでモノレールのブレーキ音か、レールを擦る音などが聞こえて、その言葉を掻き消してくれたなら、明彦は幸せな気分のまま順平と昼食を食べに行けただろう。しかし、それを聞いてしまった後で、何も知らないような顔をして食事に行くことなど明彦には出来ない。
 程なくしてモノレールはホームに滑り込んだ。空気音がして扉が開くと、明彦は勝手にモノレールを降りた。後ろから慌てて順平が追いかけてくるのが、癪に障って仕方ない。
「ど、どしたんすか真田サン…」
「悪いが急用を思い出した。一人で昼飯を食ってくれ」
「あ、ちょっと!」
 呼び止めようとする順平をその場に置き去りにし、明彦は寮に戻る道を急いだ。せっかく誘ってくれたのに、悪いことをした、という罪悪感から逃れるように、初めは早歩きだったのがいつの間にか走りに変わっていた。先程と違って呼吸が上手くできずに息苦しさを感じたが、無理に足を動かした。
 胸が苦しいのは、順平の心には明彦ではなく、チドリが住んでいるということがはっきりと分かったからだ。ここ数ヶ月の順平の行動を見ればそれは明らかだったが、明彦はその現実を認めたくなくて、気づかない振りをしていたというのに。
 あの後一緒に昼食を食べに行ったとしても、順平といつも通りの会話が出来たとは思えない。現に、順平がこぼしたひと言が、未だに明彦の頭から離れてくれないのだから。
 がむしゃらに走ったせいか、気づけば寮を通り過ぎ、大通りまで出ていた。この道を左に向かって走れば、今日通ってきたムーンライトブリッジへと続くバイパスと、白河町へ繋がる旧道の分岐地点にたどり着く。白河町での想い出が頭を過ぎった次の瞬間、誰かに滅茶苦茶にされたいという暗い感情が沸き上がってきたが、ぎりぎりの所で思い留まり、素直に寮へ引き返す事にした。


続く。