冬の空、恋模様(サンプル)



 窓際に置かれた机をちらりと見る。座る人のいないその机は、がらんとした様子がいやに目立っている。
 今日も片桐は休みだ。プロトファイバーの営業も佳境に入っており、課長の決裁が必要な場合も多い事くらい片桐は知っているはずだが、ここ最近は休みがちな日が続いていた。せっかく課のメンバーが纏まりかけている―これは本多の弁だ―というのに、克哉には、課長自らが雰囲気を壊すような事をしていると思えて仕方がない。
 椅子の背もたれに身体を預けて、ぐっと身体に力を入れた。今日は珍しく外回りの予定がない日で、今までに発注のあった店舗との契約書や納品書など、雑務に追われている間に定時になってしまった。秋は日が落ちるのが早い。すっかり暗くなってしまった外の様子に、自然と溜息が漏れる。
 お疲れ、と隣の席に座っている本多が帰った事を切っ掛けに辺りを見回すと、残っているメンバーはいつの間にか克哉一人になっていた。
 硬くなった肩を解すようにして首を回し、椅子から立ち上がる。明日の予定を考えながら、足は自然と窓際にある片桐の机に向かっていた。
 主が不在の机の前に立った克哉は、ふと、書類の間に不自然に挟まれた封筒を見つけた。咄嗟に嫌な予感がして、その封筒を見るべきではないと本能が告げていたが、構わず引き抜く。白い封筒はきっちりと封が閉じられた状態で、皺一つ無かった。
 くるりと表に返すと、表に控えめに書かれた文字が目に飛び込んできた。
「退職届」
 その三文字は、小さいながらも確かな存在感を持って克哉の心に響く。驚きはしなかったのは、心の何処かでいつかはこうなる日が来る気がしていたからだ。そう、雨の中、行かないでくれと縋る片桐を顧みず、放置したあの日から。
 片桐が休みがちになったのもあの日以降だ。出社してくれば、一日に何度も克哉の方へ視線を走らせながらも、すぐに逸らして見ていない振りをする。そんな態度が克哉を苛つかせている事を、片桐は気づいていないのだろう。
 克哉は手にした封筒を元の位置にそっと戻した。もう克哉には関係のない事だった。片桐が辞めたところで、他の部から代わりの課長がやって来るだけだ。自分の仕事内容も何も変わることはない。
 ただ、胸の鼓動だけは、克哉の意に反して通常より速かった。

***中略***

「佐伯くん?」
「お帰りなさい、片桐さん……良かった、顔が見られて……」
「いつから待っていたんですか?ずっとここで?」
「約束、しましたから……片桐さんが許してくれるまで、毎日来る、と……」
 暗い野外では克哉の顔色まで片桐には見えないはずだった。が、言葉の調子がおかしいのはさすがに分かったらしく、咄嗟に克哉の額に手を当てた片桐は、その熱さに驚いてびくりと手を震わせた。
「熱い……熱があるんですか?」
「少し風邪を引いてしまったようです……すぐに治りますよ。今日はもう、帰ります。あなたに風邪をうつすわけにはいきませんから」  身体を預けていた石柱から背中を離し、起き上がろうと地面に手を着いた。そして渾身の力を振り絞って身体を持ち上げた。これ以上片桐に体調の悪さを悟られないよう、ふらつく足を何とか制して立ち上がると、門に手を掛けて身体を支える。
 明日また来ますからと伝えると、片桐から帰ってきたのはいつもの別れの挨拶ではなく、全く違う言葉だった。
「どうして……どうして、こんなになってまで、僕に構うんですか?」
 泣きそうな声で言う片桐に、今更何を言っているのかと笑う。
「言っただろう、あんたの事が、好きだって……一度失った信用を取り戻すためなら、俺は何だってしますよ」
「……なら、なぜ……」
「え?何ですか」
「それなら、何故あの時僕の事を拒否したんですか!痴漢から助けてくれたときも、君は最後まで僕のことを拒否した……君に迷惑を掛けたくなかったから、僕は姿を消したのに……」
「片桐、さん」
「僕が何とも思わないと思ったんですか。嫌いだと、迷惑だと言われた相手でも、一度好きになった人をそう簡単に嫌いになれるわけが、ないでしょう……」
 分かっていないのは君の方だと、声を荒らげる。ぐっと拳を握りしめて、絞り出すように言葉を紡ぐ片桐の肩にそっと触れた。手から熱が伝わってしまうかも知れない、と思ったが、もうそんなことはどうでも良かった。
 克哉に触れられた片桐は、ぴくんと身体を強張らせたが、拒否はしなかった。それを了承と取って、触れた手を肩に乗せる。そして、そのまま背中に回すと、ぐっと力を入れて抱き寄せた。
「片桐さん、すみませんでした」
 しかし克哉の体力は最早限界に近かった。声を絞り出すや否や、ぐらりと世界が揺らぐのを感じて、体勢を保つことが出来なくなった克哉は、そのまま片桐に全てを預けるように倒れ込む。
「佐伯くん!?佐伯くんっ!」
 近くにいるはずの片桐の声すら、靄が掛かったように遠く聞こえる。ああ、もう駄目だと思った次の瞬間、突然意識が途切れた。

続く。