きみのいない部屋(サンプル)



 鳴らない携帯を握りしめる。先ほど届いたメールには一言、今日はそちらへ行けません、とだけ記されていた。理由も分からないまま、克哉が来ないという事実だけが片桐の顔を曇らせていた。
 そんな片桐の気配を察したのか、普段この時間では静かに眠っているはずのもんてん丸と静御前が、シェードを掛けた鳥かごの中で羽ばたく音が聞こえた。
「僕は、駄目ですね。あの子たちに心配を掛けて……」
 独りごちて、片桐は目の端に浮かんだ涙を拭った。
 克哉が家に来ない事が悲しいのではない。もちろん寂しい気持ちはあるが、一緒に暮らし始めるまでは毎日家に来る方が珍しかったのだし、飲みに行ったり遊びに行ったりしたいのならば、そうすればいいと思う。
 片桐が悲しいのは、克哉が片桐に対して何も言ってくれないことだった。友達と飲みに行くならそう言ってくれるだけで、待つ方としてはかなり気持ちが違うということを、克哉に分かって欲しかった。
 このまま克哉はここに戻ってこないのかも知れない、という最悪の想像が片桐の脳裏を掠め、その想像を振り払うように、思わず、違う、と叫んでいた。佐伯くんは黙って出て行くような、そんな人ではない、と。
 滅多に声を荒らげない片桐の叫び声に驚いたのか、騒がしかった鳥かごの中が静かになった。
 今日も一人で眠るのか、と布団を敷いていると、部屋の片隅に置かれたボストンバッグが目に入った。克哉がこの家に来るときに持ってきた荷物だった。洗濯した下着類や細々とした生活雑貨などが適当に詰め込まれているそれを見て、再び克哉が恋しくなる。片桐の気配しかないこの家の中で、唯一他人の存在を感じられる、そんな気がしたからだ。
 手にした布団に顔を埋めてみる。克哉の匂いが微かに残る布団は、克哉のように抱きしめてはくれない。そう言えばこの前克哉に抱かれたのはいつの事だったか、と思うと同時に、今、誰かに抱きしめて欲しい、と思った。そして、自分が必要とされる人間だということを分からせて欲しかった。
 スイッチが入ったかのように突然熱くなる身体を持て余しながら、片桐はそっと胸の突起に手を当ててみる。少し強く摘んでみると、僅かにピリッと刺激が身体を貫いた。
 自慰行為に耽る自分を浅ましいと思いながらも、片桐は沸き出した欲望に抗う手段を持ち合わせていなかった。
 そろそろと、下半身に伸びる自分の手を見たくなくて、ぎゅっと目を閉じた。視界が遮られ、真っ暗闇の中で自分が感じるところに指を這わせる。くちゃくちゃと粘つく音が片桐を煽っていく。このまま達しては布団を汚してしまう、と気づいた時には、手がまるで違う生き物のように片桐の身体を這い回っていた。
「あっ……んんっ、う、ぁあ」
 鼻に掛かった声が自分の物ではないような気がした瞬間、理性のネジがはじけ飛んだ。片方の手は胸に、もう片方の手でペニスを弄っていると、僅かな克哉の匂いが、片桐をまるで克哉に抱かれているような錯覚に陥らせる。
「佐伯くんっ、ああっ……んぁっ、さえき、くん……」
 片桐は行為に夢中になるあまり、背後に置かれた携帯が震えている事にすら気がつかなかった。暫くの間断続的に震えていたが、ぴたりと動きを止めると、それからは一度も震えることはなかった。

***

雨が降る。灰色の空から無数の滴が地上に降り注ぐ。
 部屋の中からそれを見ていた克哉は、ふと視線を外から中へと移動させた。
 傍らに座るのは、恋人の男。すっかり弛緩した身体を克哉に預けて、眠っている。乱れた前髪を梳いて形を整えてやると、意識は無いはずなのに嬉しそうな顔をして身動いだ。
 この前替えたばかりの畳が香ばしい匂いを放っている。こんな湿気の多い時期に替えなくても良いだろうと克哉は言ったのだが、片桐はずっと気になっていたのだと言って譲らず、とうとう先週の土日に新しい畳がやってきた。
 すぐ近くにある掃き出し窓からは外の様子がよく見える。雨がコンクリートを打つ音も聞こえてきて、ますます外に出るのが億劫になる。こういう日は、家でじっとしているに限る。
「片桐さん」
 軽く肩を揺すってやると、片桐は閉じていた目を開けた。克哉の方を見てにっこり笑う。
「ごめんなさい、眠ってしまっていましたか」
「疲れたんだろう」
「少し、疲れていたみたいです」
 起き上がろうとする片桐を制して、克哉は唇を重ねた。眠っていた欲望を呼び覚ますように、何度も吸い上げる。いつの間にか片桐の手が克哉の腰に回っており、引き寄せるように力が入った。
「片桐さん、欲張りすぎですよ」
「ご、ごめんなさい」
「そんなに欲しいんですか?」
 分かっている事を敢えて聞くと、片桐は俯いて小さく頷いた。しかし、ただのセックスでは面白くないと、克哉は辺りを見回した。
 そして、掃き出し窓を開けると、片桐に上着を羽織って外に出るよう指示する。
「たまには、外でしましょうか」
「え?」
「欲しいんでしょう?」
 片桐は少し迷ったようだった。高層マンションならまだしも、ここは住宅街の一角で、二階にあるベランダなど周りの家から丸見えになる。幸か不幸か辺りにそれ以上高い建物はないから、上から覗かれる心配だけは無いだろうが、それでもまだ昼間だというのに、あまりに破廉恥な行為に、片桐は戸惑いを隠せない。
 さあ早く、と言う克哉の声に冗談の色は浮かんでいない。片桐はそれを悟ると、側に落ちていたシャツを羽織り、、ボタンを二、三個留めた状態で外に出た。素足にひやりとしたコンクリートの冷たさが伝わる。
 屋根が張り出しているベランダは濡れていない。また、柵ではなくコンクリートの壁で囲われているので、下半身が丸見えになるということもない。それを分かっていて、克哉は片桐に外に出るよう言ったのだ。
「ベランダの手すりに手をついて……そうです」
「さ、佐伯くん、本当にここで?」
「ええ」
 あっさり言い放った克哉の言葉を聞いて、片桐は顔を青くした。が、それには気づかないふりをして、克哉もベランダに降りると、後ろから片桐を抱きしめる。
「あんたが声を出さなければ、大丈夫ですよ」
続く。