あなたの願いが叶うなら(サンプル)



 新居に帰り、持ち帰った物を片付けながら、片桐は軽く溜息を吐いた。
 目の前にはくすんだ色のアルバムが数冊。昼間に克哉と部屋を掃除していたときに発見したものだ。その表紙に刻まれた日付が、今からかなり昔のものであることを表している。
 克哉と付き合うようになってから気にしないようにしてきた「年の差」という大きな壁が、再び片桐の前に突きつけられる。昼間に克哉が零した、「どうしてもっと早く生まれてこなかったのか」という言葉が、自分で思っていた以上に重くのし掛かっていた。
 克哉が年の差を感じて苦しむ姿を見るのは嫌だし、片桐だって克哉と少しでも長く一緒にいたいと思っている。しかし、親子ほどもある年の差では、克哉が病気を患ったりしない限りは片桐の方が先に老いて死んでいくだろう。克哉を残して消える、と言うことが今はとても怖かった。
 後十年、いや五年でも若返ることが出来たら。不可能だと分かっていても、そう思わずにはいられない。アルバムを前にして、ぐっと手を握りしめていると、ふと、誰かの視線を感じて片桐は顔を上げた。
「克哉くん?」
 風呂から上がったのだろうか。立ち上がって廊下に繋がる方の襖に近寄るが、それはピタリと閉じており克哉が覗いていたような形跡はない。それでも念のためにと開けてみるが、やはり克哉の姿はなかった。
 気のせいだったかと再び部屋の中央に戻って座ろうとしたとき、庭に繋がる縁側の方から再び視線を感じてぞっとする。少々立て付けが悪く、開ければ必ず軋む音が聞こえる門を通らなければこの庭までたどり着けないはずなのに、それを開けた音は聞こえていないはずだ。  恐る恐る縁側に近づいて、勢いよくカーテンを開けてみる。が、そこには人の姿は無かった。片桐は詰めていた息を吐き出して、ほっと胸を撫で下ろす。やはり自分の勘違いなのだと言い聞かせながら、それでも少し不安になって、三和土に置いてあったサンダルを引っかけると玄関の方へ回った。
 やはり門は開いていなかった。念のために自分で開けて道路に出てみる。住宅街の中を通る生活道路は人気もなく、それぞれの家から零れ出る明かりだけが点々と路面を照らすのみ。
 気にしすぎだと踵を返して家の中に戻ろうとしたとき、片桐の足が竦んだ。
「こんばんは、片桐稔さん」
 耳のすぐ近くで名前を呼ばれたからだ。どっと背中に冷たい汗が流れる。さっきまで道路には誰もいなかったはず。それなのに、声がするのはどういう事だろう。しかも、声の主は自分を知っているらしい。
「だ、誰ですか」
 後ろを振り返る勇気が無いまま、片桐は震える喉から声を絞り出した。しかし声の主は名乗らないまま、くつくつと微かに笑い声らしいものを零している。
「あなたの望みを叶えて差し上げる者ですよ」
「僕の、望み」
「そうです。あなたは強く願ってらっしゃった。……若返りたいのでしょう?あの方の、佐伯克哉さんの足手まといとならないように、若い身体になりたいと、願ったはずです」
 ずばりと願いを言い当てられ、片桐は心臓が止まるかと思った。確かにそう願ったが、一言も口にしていないはずだ。それが、何故、この声の主が知っているのだろう。
 信じたわけではない。信じられるはずがない。若返りたいと願って、若返らせてやろうだなんてそう簡単にできる事ではない事くらい、片桐は知っている。もしかして自分の頭がおかしくなってしまって、幻聴が聞こえているのではないかと疑ってみるが、その考えすら声の主にはお見通しだったらしい。
「信じていませんね。無理もないでしょう。しかし、私ならばあなたの願いを叶えて差し上げられますよ?」
「ほ、本当に、若返ることが出来るのですか」
「ええ、もちろん。そしてその若い身体であの方を満足させてあげることだって、十分可能ですよ」
 口の中に溜まった唾をごくり、と飲み込んだ。この声の主は全てを知っているらしい。片桐の体力が無くて克哉が若干欲求不満気味になっていることも、何もかも。一体何者なのか、という疑惑は変わらず片桐の中にあったが、それと比べても、願いを叶えてくれるという言葉は酷く魅力的だった。
「どうすれば、いいですか。僕は何をすればいいのでしょうか」
「簡単です。この実を食べてください。それだけで、あなたは若返る。ただし」
 そこで声の主は言葉を切り、それまでの朗々と歌でも歌っているような口調とは打って変わって、低く恐ろしい声色で続けた。
「あの方……佐伯克哉さんには、このことは話をしてはいけません。一度でも話をすれば、あなたの願いは叶うどころか、更に年を取ってしまうことになるでしょう」
「わ、わかりました」
「それで結構。それに、あなたの望みは、佐伯克哉さんの望みでもありますから、その事を重々忘れないでください」
「克哉くんの、望み」
 片桐がそう口にしたとき、ざあっと強い風が吹いた。慌てて顔を覆う為に腕を上げようとしたとき、無意識のうちに握っていた手の中に違和感を感じた。何かが手の中にある。恐る恐る手を広げてみると、その中には何か丸いものが一粒乗せられていた。これが、声の主が言った「実」というものなのか。
 気が付けば、もう声は聞こえなくなっていた。慌てた片桐が背後を振り返っても、そこには誰もいない。しかしあの声はしっかりと耳に残り、片桐の脳内で何度も再生される。
『あなたの望みは、佐伯克哉さんの望みでもありますから』
 そうだろう、克哉だって片桐が若返ってくれれば嬉しいはずだ。そうすれば、もう年の差で悩ませる事だって無い。
 その時、玄関のドアが開いて、克哉が顔を出した。
「稔さん。そんなところで何をしているんですか」
 克哉の声にはっと我に返った片桐は、慌てて家に戻った。克哉は訝しげな表情を浮かべて片桐を見ていたが、まさか先ほどの事を話すわけにも行かない。声の主は克哉に話してはいけないと言っていたし、大体話をしても、到底信じてもらえるとは思っていなかった。
 風呂に入ると言って洗面台の前に立った片桐は、その実を水道水でひと思いに飲み込んでしまった。見たところ、それは柘榴の種だったが、柘榴の種に身体を若返らせる効果があるという話は聞いたことが無いし、果物の種ならば食べたって身体に害は無いはずだ。
 そして風呂に入り、克哉の待つ寝室に戻る頃には、そんなこともすっかりと忘れてしまった。

続く。