その後ろ姿を(東北&宇都宮)


「……遅い」
 某月某日、東京駅。東北は懐から懐中時計を取り出し、短い時間に何度眺めたか分からないそれを開くと、諦めの色が滲んだ溜息を吐き出した。
 最終電車の時間が迫っている。それなのに、我が部下は、まだ上野に着かない。折り返しで再び下っていくそれを待つ客で上野駅のホームは溢れているという。
 どうするか、一瞬迷った。後数分で自分の発車時間となる。仙台まで行く最終列車だ。
 東京を出て、仙台に到着するのが二十三時五十九分。これは、新幹線が通常運行できる時間を最大限に使ったダイヤだった。一分の遅れも許されない。遅れれば、騒音で沿線の人たちに迷惑を掛けることになる。
 しかし、大宮駅で自分に接続するはずの宇都宮線が遅延しているのだ。この列車に乗れなければ、今日中に仙台にたどり着くことは不可能となる。新幹線で一時間ほどの距離にある仙台から通勤・通学している人も多い。しかも今日は週の真ん中で、明日も仕事があるであろう乗客を見捨てることは出来ない。
 椅子に座っていた上越が立ち上がり、東北に声を掛ける。
「東北。もう時間だけど」
「……ああ」
 東北は、いつも無表情の顔を僅かに歪めて、腕を組んだ。そして、もう一度懐中時計を見る。
「上越。先に行け」
「いいの?」
「ああ」
 それじゃ、先に行くよ、と上越は羽織るだけだった制服の前を止めると、部屋を出て行った。それと同時に、東北は駅構内に放送を流すよう指示をした。東北新幹線最終列車は、在来線遅延のために出発を遅らせる、と。
 越後湯沢まで行く最終列車が新幹線ホームから静かに滑り出していくのを見ながら、東北は今日何度目になるか分からない溜息を吐いた。

***

 やっとの思いで上野にたどり着き、折り返しの乗客を満載にして宇都宮は走った。夕方に起こった人身事故の影響をずっと引きずったまま、ここまで来てしまったのだ。一時間半の遅延は十分程になっていたけれど、遅延していることに代わりはない。疲れた身体にむち打ちながら、大宮を目指す。
 本当ならば、大宮で最終の仙台行き東北新幹線ーー自分の上官に接続するはずだった。しかし予定時刻より遅れてしまってはもう間に合わない。併走する京浜東北線や高崎線まで遅れているので振替輸送も見込めず、やむを得ず今走っている列車に乗っただろう乗客達は何を考えているのか。泊まるホテルの心配か、家族へのメールか。
 舌打ちしたい気持ちをぐっと堪えて、宇都宮は残り数十メートルまで迫った大宮駅の明かりに目を細めた。
 多少荒くはあったが、何とかホームに滑り込む。ホームの明かりが暗闇を走ってきた目にまぶしい。しかし、そこで見たものは、宇都宮の細めた目を見開かせるには十分すぎた。
『【遅延】東北新幹線は、在来線遅延のため時間調整を行い、現在遅れが……』
 電光掲示板の文字が淡々と流れ続ける。上官が遅延?まさか、と思わず口をついて出た。しかしそれは真実であり、まだ間に合うと分かった乗客がどっとホームへ躍り出る。階段やエスカレーターを駆け上がり、新幹線ホームへ走る人々を、宇都宮はただ見ているしかなかった。
 発車を告げるベルが鳴り、はっと我に返る。まだ終点ではない。気を引き締めて宇都宮は再び暗闇を捉え、動き出した。

***

「東北、上官……」
 今日の運転を終えた宇都宮が疲れた身体を引きずって宿舎に戻ると、丁度上官用の宿舎に東北が入っていくのが見えた。
「上官」
 宇都宮が発した声が聞こえたのか、東北はぴたりと足を止め、ゆっくりと宇都宮の方を向いた。寡黙な上官を前にして、自然と背筋が伸びる。
「今日は、その、すみませんでした」
「……おまえの所為ではない。また明日ダイヤ通り走ればいい」
「はい」
「それだけだ」
「上官。今日は……どうして」
 どうして、自分を待っていたのですか、と訊こうとした言葉は、全て発する前に東北によって遮られる。
「乗客のため。それだけだ。分かったか?……もう行け。明日も早い」
 それだけ言うと、くるりと踵を返し東北は宿舎の中に消えた。宇都宮はただその後ろ姿を黙って見てるしかなかった。
 肌寒い中、一人残された宇都宮は、東北が消えた扉を見つめ、そして小さな声で言った。
「……イエス、上官」
 新幹線の運行時間が在来線よりも厳しく制限されているのは宇都宮も知っている。そして、自分が接続するはずだった仙台行きの最終は、その制限時間ギリギリで運行されている事も。
 それでも、乗客の為にと敢えて遅延することを選んだ東北を、宇都宮は尊敬すると同時に、その模範的な行動に吐き気がする思いだった。