その目に過ぎるもの(東北&宇都宮)


 最終上野行きの運転を終えた宇都宮は、既に明かりが最低限まで落とされたホームに立った。上野駅の構内は普段の混雑ぶりが嘘のような静けさに包まれている。宇都宮が歩く度に鳴る靴の音が響いていた。
 わざとゆっくり歩きながら、携帯電話を取り出して液晶を見た。薄暗い中で見る所為だろう、眩しいくらいに輝いた画面には、宇都宮が期待していたものは何も表示されていなかった。
 苛立たしげに携帯を閉じ、ポケットにねじ込むと出口に向かって歩いていく。今日は高崎が早く上がる日だから、この上野駅に居るのは自分だけだ。電車が運行していない時間帯だから、駅員も最低限しか配置されていない。
 明日はオフだった。だから今晩は多少無理をしてもーー夜更かししても、という意味だーー問題はない。だから誘ったのだ。一緒に飲みに行きませんか、と。
 しかし誘った相手からはこの時間になっても連絡が来ていなかった。遅延しているという話は聞かなかったから、ただ無視されたのか、それとも別の用事でもあったか。どちらにしても連絡の一つも寄越さないなんて、と上官に対して傲慢とも言える感情を抱きながら、職員用の出口に続く扉に手を掛けた。
「……東北、上官」
 扉を開けた向こう側に立っていたのは、東北だった。宇都宮の苛立ちの原因を作った張本人。東北は何も言わず、ただじっと宇都宮の顔を眺めていた。
「業務は終わったのか」
 東北はそれだけ口にすると、宇都宮の返事を待たずにくるりと踵を返した。咄嗟の事に面食らい、何も言い返すことが出来なかった。そうしている内にどんどん距離を離されて、宇都宮は慌ててその背中を追う。
 待っていてくれるのならば、メールの返事を返してくれればいいのに、と思った宇都宮は、東北に向かって文句を言った。苛立ちが滲むのも隠さず、そのままに。
「どうして連絡をくれなかったんですか」
「連絡?」
 東北の足が止まった。宇都宮もそれに合わせて止める。くるりと宇都宮の方を向いた東北は、無表情ながらも僅かに困惑の色を浮かべていた。
「メールを送ったと思ったのですが」
「お前からメールは届いていない」
「嘘だ。確認してください。今日の……いや、昨日の二十時頃です」
 東北は宇都宮に言われるがまま、携帯を取り出すとメールボックスを開いた。二三度ボタンを押す音がしたかと思った次の瞬間、ずい、と宇都宮の目の前に携帯が差し出される。
「見てみろ。お前からのメールは届いていない」
 そう言われて液晶画面に視線を移す。東北が示しているのは受信ボックスそのもので、確かに宇都宮のメールアドレスも名前も見あたらなかった。
「送信したつもりで送られていないのではないか」
 東北に言われて、宇都宮は自分の携帯を取り出すと送信ボックスを開いた。スクロールさせていき、東北へ送ったはずのメールに辿り着いたとき、宇都宮は僅かに目を見開くことになった。
 東北へ送ったメールは確かにあった。が、送信状態を示す欄に×印が付いている。つまり、送信に失敗していた、ということになる。
 届いてもいないメールに返信しろという方が無理がある。宇都宮は自分の失態に舌打ちし、乱暴に携帯を閉じた。東北の顔を見ることが出来ない。
 しかし東北は、そんな宇都宮の態度など気に掛けていないようで、再び踵を返すと何も言わずに歩き出した。反射的に宇都宮もその後に続くが、ふと、違和感を感じる。
 宇都宮のメールは東北には届いていなかった。それならば、何故、東北は宇都宮を迎えに来たのか。
「東北上官」
「何だ」
「……どうして」
 迎えに来てくれたのですか、という言葉は最後まで発することが出来なかった。否、答えを聞くのが怖かったから止めたのだ。僅かに心の中に芽生えた期待をあっさり踏みつぶしてしまう事になるかもしれないから。
 言葉を途中で切った宇都宮を気にする様子もなく、東北は黙って歩いている。通路の一番奥、外に繋がる扉の前まで来て、扉を開けるために止まった東北は、ドアノブに手を掛ける前に再び宇都宮の方を向いた。そして、
「……何処か行きたいところがあると言っていたか」
 それは何処だと問われ、宇都宮は東北が何を言っているのか理解するのにたっぷり五秒程掛かった。そして、その問いが先ほど宇都宮が送ったと思っていたメールの内容であるということに思い至る。
 しかし、あのメールは最早意味をなさないものとなっていた。賭けだったのだ、東北が自分に付き合ってくれるかどうか、ということが。返事が来て付き合ってくれるというのであれば宇都宮の勝ち、返事が来ないか断られれば宇都宮の負け。だから、本当は行き先なんてどうでもいい。
「それはもういいんです」
 帰りましょう上官、と東北が開けない扉を開けようとして、宇都宮は壁と東北との間に身体を割り込ませてドアノブに手を掛ようと手を伸ばした。
 その時、東北の手が宇都宮の腕を掴んだ。はっとして東北の顔を見る。いつもと変わらない無表情な顔。しかし、宇都宮は気づいてしまった。東北の目の奥に明らかな欲情の色が浮かんでいる。
 所詮高速鉄道も人の子なのだと思った瞬間、東北に意味のない期待をしていた自分が滑稽で、可笑しくて笑いだしそうになる。常に冷静で取り乱す様子もなく、いつも襟元からつま先まできっちりと制服を着込んだ自分の上官を、自分と同じ場所に引きずり落としたかったのに、宇都宮が気づかない間に東北はもうとっくに落ちてきていたのだ。否、もしかすると最初からそこにいたのかも知れない。
 廊下に備え付けられた蛍光灯がちかちかと瞬いた。掴まれた腕が熱いのは、滅多に外すことのない白手袋を、東北が今日に限って着けていないからか。
 もう一度目を見る。欲情の色は既に消えていた。まるで見間違いだったかと思う程、鮮やかに隠匿された感情。そして、するりと東北の手が離れていく。
 それでも掴まれた腕は熱いまま。
「上官、やっぱり飲みに行きましょう」
「……帰るのでは無かったのか?」
「気が変わりました。それに僕、明日は休みなんです」
 だからどれだけ無理をしてもいいんですよ。あなたは知りませんけど、と内心呟いて、宇都宮はドアノブを回した。