機嫌の量り方(宇都宮&高崎)
土曜の夕方、池袋駅。
向かい側のホームで宇都宮と埼京がなにやら言い合っているのを遠目に見た。
この日湘南新宿ラインは少し遅れていて、どうやら先にやって来た宇都宮が発車するまで埼京は動けない、という状態に文句を言っているようだった。
人混みの中、二人の声は聞こえない。が、表情だけは今高崎がいる位置からよく見えた。
いつもの通り、泣き出しそうなくらい顔をくちゃくちゃにしている埼京と、薄い笑みすら浮かべている宇都宮と。
何を話しているのか気にならない訳じゃない。が、ここからわざわざ向かい側のホームへ行って話に割って入れるほど高崎に時間の余裕はなかった。
すぐに目の前の信号が青に変わり、発車ベルが高崎を急かす。まあ今度会ったときに話を聞こうかと思いながら、高崎はホームから離れた。
「……だから、何でおれが延発なんだよ!おれの線路だろ!」
今にも噛みつかんばかりの勢いで怒鳴っている埼京に宇都宮は頭痛がした。それでも顔には出さず、あくまで言葉は丁寧に埼京を諭す。
「一つの閉塞に二つの車両が入れない事くらい、きみだって分かっているはずだよ、埼京。それに元々僕の方が先に着いていたんだから、仕方ないじゃない」
「遅れる方が悪いんだろ!見ろ、お客さんだって困ってるじゃないか」
「それなら僕に乗ればいい。この後は大崎までどうせ同じ駅に停車するんだし、大体きみは次の新宿が終点なんだからそれで全て解決する」
「なっ……でも!!」
宇都宮が言っていることは正しい。実際に埼京線は次の新宿止まりだし、既に乗客には急いでいる場合は向かい側の湘南新宿ラインに乗るようにアナウンスしている。それでも日頃の鬱憤が溜まっているのか文句を言わずにいられない埼京に、宇都宮も更に酷い暴言を吐くギリギリ手前まで来ていた。
その時、発車ベルが鳴る。それを良いことにそれじゃ、と無理矢理会話を打ち切った宇都宮は電車に飛び乗った。すぐに扉が閉まり、埼京をホームに残したまま電車は走り出す。
どうせまた次の新宿駅ですぐに会うことになるのだろうけれど、折り返し運転の埼京とはホームが違うはずだった。たった数分の会話でどっと疲れた気がして、宇都宮は溜息を一つ吐いた。
「宇都宮、今日埼京と何かあったの」
夜、運転を終えて宿舎に戻ると、京浜東北にそう言われた。
「……耳が早いね。埼京が何か言ってた?」
「いいや。高崎がそう言ってたから」
高崎が、と思わず聞き返していた。そんな宇都宮の返事が意外だったのだろう、京浜東北は不思議そうな顔をして宇都宮を見る。
「あれ、知らなかったの。てっきり一緒に居たんだと思っていたんだけれど」
池袋駅で埼京と話をしたのは確かだが、その場に高崎はいなかったはずだ。どこで見られていたのだと考えながらも、宇都宮が気になるのは、どうしてそれを高崎が京浜東北に言おうと思ったのか、だった。
「あまり泣かせないでよね。ただでさえこの時期は色々あるんだから。埼京が止まったらどうなるかきみたち十分分かってるでしょう?」
今日も人身事故で止まっていた京浜東北は、溜息を吐きながら踵を返した。はいはい、と返事をしながら、宇都宮も足を動かす。ただし向かうのは自分の部屋ではなく、高崎の部屋だ。
こんこん、と扉をノックすると、少し間をおいてはい、とくぐもった声が聞こえてきた。
「高崎?僕だけど開けてくれる?」
「ちょっと待て」
ばたばたと走る音が聞こえて、がちゃりと鍵が外される音がした。ぬっとドアの隙間から顔を覗かせた高崎の口には歯ブラシが刺さったままだ。くぐもった声の正体はこれだったのかと納得しながらも、宇都宮は続ける。
「ちょっといいかな」
「別にかまわねえけど、何だよ夜中に」
「夜中じゃないとゆっくり話できないから」
強引に扉の隙間に身体をねじ込んで、高崎の部屋に入り込んだ宇都宮は、歯ブラシ置いてくると言う高崎の後に続いて部屋の中へ向かう。
勝手知ったる様子でベッドにどさりと腰を下ろすと、高崎の口元から歯ブラシが無くなるのを待った。僅か数分にも満たない時間だが、宇都宮にはどうしてかとても長く思えた。早くバスルームから戻ってこい、と内心毒づく。
そんな宇都宮の心情を知らない高崎は、歯磨きの後ご丁寧に顔まで洗って、とてもさっぱりした様子で意気揚々と宇都宮の前に現れた。
「で、何だよ話って」
「今日、何処で僕と埼京が言い争っている所を見たの?」
「ああ?」
突然の宇都宮からの質問に、何を言っているか分からない、と言うように高崎は眉間に皺を寄せた。が、すぐに質問の意味を察したのか、池袋でな、とあっさり白状する。
「てかふつーの光景だろ。お前が埼京の事いじめて遊んでるの」
「別に遊んでないよ。あっちが食って掛かってきただけさ」
「そうなのか?そうには見えなかったけどな」
「というか、高崎は僕のことそんな風に見てるってことが今の質問でよく分かったよ」
宇都宮の表情は変わらない。が、声のトーンが少しだけ、本当に少しだけ下がって、高崎は咄嗟にびくりと身体を硬くした。付き合いの長い宇都宮のことは高崎にはよく分かる。
つまり、怒っているのだ、高崎に対して。
「僕が埼京をいじめていると思ったから、きみは京浜東北にその事を告げ口した、そうだろう?」
何でもお見通しなんだよ高崎のことは、と宇都宮がくすくすと笑う。高崎の思考が手に取るように分かった。今は、そう、宇都宮にいじられまいと身体を強張らせている。
「それに、湘南新宿ラインの遅れはきみにも無関係じゃないはずだ。きみにだって埼京に文句を言う筋合いがある」
「お前は言い過ぎだけどな」
「高崎のくせに僕のこと非難するんだ?へぇ」
ヤバイ、スイッチが入った、と高崎が思ったときには既に遅かった。宇都宮は完全に怒っているらしい。何がそんなに彼を怒らせることになったのか、高崎には皆目検討がつかなかった。ただ自分は宇都宮と埼京が言い争っている所を見て、たまたま京浜東北にぽろっとこぼしただけだ。それだけなのに!
よく考えればあれを見てしまったことが、既に高崎の災難の始まりだったのかも知れない。
「何が気に入らないんだよ!」
最後の抵抗を試みるように、今一番の疑問を投げつけた。
しかし、宇都宮からの回答は、そんな疑問をあっさりと砕いてしまうほど簡潔なものだった。
「全部」
そのまま押し倒されそうになりながら、高崎は内心、平穏な夜よさようなら、と思った。