苦しさの奥に(東北&宇都宮)
胸の奥がざわついているのを感じていた。
始発前のまだ暗い時間。そろそろ始発電車に入り、出発前の準備に入る時間。それなのに、いつもとは違う感覚が東北に襲い掛かった。全身が思うように動かない。
「む……」
暫く身体を動かせず、じっとベッドの上で耐える。ゆっくりと身体を動かしてみて、身体が動くことを確かめていると、控えめに扉をノックする音が聞こえた。いるぞ、と短く返事をすると、控えめにドアが開けられる。その隙間から顔を覗かせたのは秋田だった。
「東北?なんだか変な感じがするんだけど」
「……お前もか」
「お前もか、って東北も?」
ああ、と返事を返すと、秋田は顔を曇らせた。
「僕だけじゃないなんて……なんだろう、すごく嫌な予感がする」
「他の皆は」
「東日本組は全員起きてるみたい。東海道はさっき会った。山陽は……ちょっと分からないな」
「了解した。すぐに皆を集めてくれ。上官室に集合だ」
事を察した秋田は真剣な面持ちで頷くと、すぐに部屋を出て行った。東北も着衣を整え、最後に白い手袋を手にはめると、部屋を出て上官室に向かった。
***
「全線で運転を見合わせるって!?馬鹿言うなよ、今日がどんな日か知っていての判断!?」
椅子から立ち上がったまま、興奮してまくし立てる上越に向かって、東北はただひとつ頷いて見せた。
「上越せんぱい……僕たち、どうなるんですか?」
上越の横で長野が不安げな表情をして周りにいる高速鉄道たちを見渡した。その声で少しは冷静さを取り戻したらしい上越は、ようやく椅子に座る。
「乗務員と車両が回せない。だから運転できない」
「分かってるよそんなこと。でも、乗客はどうなるの。今日の予約状況は」
「指定席はほとんど埋まっとるでなぁ」
俺ですらも、とただ聞けば暢気とも思える口調で山形が言う。が、昨日も大幅に遅延していた山形は無表情の中にも疲れを滲ませていた。皆それを分かっているから何も言わない。
重苦しい空気が辺りを支配していた。こんな時自分たちは無力だと実感する。普段運行出来ているのも、軌道、信号、架線、車両、そして運行システムの全てが正常に稼動しているからだ。それらが一つでも欠けると、今回のような大規模な運転見合わせに繋がり、しいては乗客からの信頼を失うことになる。
「東海道と山陽はちゃんと動いているんでしょう?」
「当たり前だ。お前たちとはシステムが違うからな」
黙っていた高速鉄道のリーダーは厳しい表情でそう言った。それで少しだけ安堵する。東海道と山陽が動いているのなら、東京駅が人で溢れる事はまずない。
それでも、新幹線改札は混乱すること必至だろう。既に駅員は場内の告知に奔走しているはずだ。本来ならば始発が動いているはずの午前六時を過ぎても、運転開始の目処が立たずにいるのだから、乗客の怒りと混乱を受け止めて、ただ謝ることしか出来ない彼らのこと思うと胸が痛む。
「……原因が分かり次第、復旧に掛かる。いつでも運転再開出来るよう、準備だけはしておけ」
東北にはそれしか言えなかった。こんな時、自分たちは無力だと、もう一度思った。
***
始発から二時間以上が経過した午前八時を過ぎて、ようやく復旧の目処が立った。朝早い新幹線に乗る予定だった乗客で改札前は混雑し、窓口には払い戻しや乗車変更のための長蛇の列が出来ていた。
朝からホームに停車したまま動かない己の車両を窓越しに見ていると、ふと背後に気配を感じた。身体が覚えている気配。そして微かに香るどこか懐かしい匂い。
「宇都宮か」
「……どうして分かったんですか」
東京にいるはずのないその姿に、わざわざ自分たちを笑いに来たのかと問う。秋田は今頃指令室に詰めているはずだし、上越と長野はもうすぐ出発する予定の車両の最終点検、山形は階下の様子を見てくると言って先ほど出て行ったばかりだった。だから、ここには東北しかない。
「分かる。俺の部下だからな」
「それはどうも。で、今日は大変みたいですね、上官」
「在来は問題ないのか」
「ええ、お蔭様で。どの路線も遅延一つない状態のようですよ。珍しいですよね、運行案内にはそろいもそろって上官の名前ばかりが載ってるんだから」
「そうか」
それ以上東北は言葉を紡がず、また宇都宮も黙ってしまった。沈黙が二人の間に広がって辺りを埋めていく。まるで、青森で見た雪のように、しんしんと。
「澄ましたような顔をして……それだけですか」
言うべきことはそれだけかと少しだけ語気を荒くした宇都宮に、東北は沈黙を持って答える。宇都宮が何を望んでいるのか分からなかったから、黙っていただけだ。それなのに、宇都宮は顔をしかめて東北を睨んだ。
「いつでも冷静で、取り乱すことがない。その動かない顔の下で何を考えているんですか、上官」
「……冷静ではない。こんな状態で冷静でなどいられるはずがない」
「でも」
「それでも、復旧すればすぐに走り出さなければならない。それが我々の役目だ。違うか。取り乱すことに何の意味もない。それで全て解決してすぐにでも運転を再開出来るならとっくにそうしている」
東北の言葉に驚いた宇都宮が黙った。東北は少し熱くなりすぎたかと口をつぐみ、再び沈黙が訪れる。
その時、控えめな音で東北の携帯電話が鳴った。目だけで宇都宮に断り、通話ボタンを押すと飛び込んできたのは秋田の声。
「どこにいるの東北!?今「とき」と「あさま」を続けて出したから、次は「はやて」と「こまち」を動かすって!」
「分かった。今行く」
短く返事をして電話を切ると、もう東北は宇都宮のほうなど見ることをせず、まっすぐ扉に向かって足を進めた。
「上官!!」
あと少しでドアのノブに手が届きそうな距離で、背後から宇都宮に呼び止められ、足を止める。が、振り返ることはしなった。
「……すみません。言葉が過ぎました」
「お前も早く通常業務に戻れ」
非難することもせず、咎めることもせず、ただそれだけ言い残して東北は部屋を出た。途端、喧騒が東北を包み込む。先ほど宇都宮といるときに感じた静けさが嘘のような騒々しさ。必死に事態の収拾に当たろうと走り回る職員を避けながら廊下を進んでいくと、向こう側から上越が歩いてくるのが見えた。
「運転、再開したよ」
「分かっている」
「早く行きなよ。秋田が、乗客が待ってる」
「ああ」
すれ違いざま、上越が上げた手に自分の手を合わせる。パン、と小気味いい音が響いて、東北は少しだけ詰めていた息を吐き出した。
***
「疲れた……」
どさりとソファーに身体を預けてつぶやくのは上越。山形も心なしかぐったりとしているようでいつも以上に言葉少ない様子だ。長野は眠そうに目を擦っている。無理もない、山形や長野は昨日に引き続いての遅延だったのだ。
既に東海道と山陽は自室に戻っているようだった。慌しく走り回る東北たちを気遣って、定例の報告会は延期してくれた。ただ、東海道は今日のトラブルを酷く気にかけていたようだったから、明日になれば原因等々細かく追求される事は明らかだったが、それが今日でないだけまだ楽だと思う。
結局今回のトラブルの原因は、前日の乱れと年末の為の臨時列車増発による変更をシステムが吸収し切れなかった所為だと聞いた。前日のトラブルは自然災害による不可抗力とはいえ、今後も同じことが発生しうることを考えると、決して楽観視は出来ない。
「みんな、お疲れさま」
秋田がそれぞれのカップに淹れたお茶を皆の前に置いて回る。それを黙って受け取った東北は、まだ熱い茶を一口啜った。暖かい茶が喉を通り胃に染み渡るのを感じて、ようやく一息ついた気持ちになれた。よく考えれば日中ずっとばたばたとしていた所為で、まともな食事どころか何かを口にすること自体無かったのだ。
「明日は定時運行だ。皆早く休むように」
東北がそう言うと、ソファーに半ば横たわったような状態になっていた上越が手を上げて了解の意を伝える。
「んだなぁ、長野はもう寝たほうがえぇ」
「はい、山形せんぱい……」
既にこくりこくりと頭を上下させていた長野を気遣って、山形がそういうと、秋田も頷く。
「大丈夫?部屋に行ける?」
「ぼく、もうそんなに子供じゃありません」
少しふてくされた様な声で長野が言った。そして椅子から降りるとぺこりと他の高速鉄道に頭を下げて、先にお休みしますと部屋を出て行った。
「お休み、長野」
「おやすみなさい」
小さな背中を見送って、残った四人もそれぞれ戻る準備を始めた。とにかく疲れた身体を休めたくて、気を抜けば閉じそうになる目を開けていることで必死だった。
「東北、お疲れ様」
気がつけば、いつの間にか隣に秋田が来ていた。ああ、と頷いたその時、胸ポケットに入れていた携帯電話が震えた。こんな時間に連絡を寄越す知り合いはいない。訝しがりながら震え続けるそれを取り出して液晶に表示された名前を見た。
「どうしたの」
「いや……なんでもない」
咄嗟に確認ボタンだけを押して、メールの内容は見ずに再び携帯電話を仕舞った。秋田もそれ以上追求することは無く、ただ東北を見て、そして、
「……溜め込まないでよ、東北。僕がいるから」
「ああ……そうだな」
秋田の気遣いに罪悪感を覚えながら、東北はメールの送り主の顔を脳裏に思い浮かべた。