とり野菜みそぞうすいのうどんを食べる話
ある日の夕方のことだった。
はくたかが休憩室で書類を片付けていると、名古屋から戻ってきたしらさぎがやってきた。
「あ、しらさぎ。お疲れ様」
「ああ、はくたか。お疲れ」
しらさぎはそう言うと、鞄をテーブルの上に置いて、近くに置かれているソファーにぐたりと身体を預けた。
「しらさぎ、どうしたの? 具合でも悪いの?」
「そうなんだ。名古屋から戻ってくる途中で、寒気がしたと思ったら突然全身が怠くなって……申し訳ないけど、少し休ませてもらうよ」
「もしかして、熱があるんじゃないの?」
ちょっと待ってて、とはくたかは備え付けの救急箱から体温計を取り出し、しらさぎに渡した。ありがとう、と受け取ったそれをわきの下に挟んで暫く大人しくしていると、ぴぴっと電子音が鳴る。
引き抜いた液晶に映し出された数値を見て、しらさぎはくらりと目眩がした気がした。
「何度だった?」
「三十八度五分。そりゃ寒気もするわけだ」
「高熱じゃないか! こんなところで寝てないで、宿舎に戻った方がいいよ」
はくたかが慌てて体温計をしらさぎの手から奪い取り、液晶を見た。
「いや、もう歩くのも億劫なんだ……」
「それなら少しでも暖かくしないと」
はくたかはロッカーから共用の毛布を引っぱり出してくると、ソファーに横たわるしらさぎに渡す。しらさぎは上着を脱いでその辺に置くと、そのまま毛布にくるまってしまった。
「うう、寒い」
しらさぎは毛布にくるまれながらもなおガタガタと震えている。今は真夏で、毛布どころか普段の制服すら脱ぎ捨てたいくらいの気温だというのに、しらさぎの光景は異様だった。
「エアコン、切ろうか?」
震えるしらさぎにはくたかがそう尋ねると、しらさぎは、いや、いいよと首を横に振る。
「でもそれじゃはくたかが暑くなってしまうだろう? 私の事は構わないでいいから……」
「そういうわけにもいかないよ。そうだ、何か暖かいものを食べてしっかり汗を掻けば熱が下がるんじゃないかな」
「食欲が無いんだ……」
「おかゆとか、スープも無理?」
しらさぎが頷く。だが、同時に腹の虫がきゅっと小さな音を立てたことをはくたかは聞き逃さなかった。
「薬を飲むにしても、何か胃に入れなくちゃならないし、ちょっと待ってて。食べられそうなもの探してくるから」
そう言ってはくたかは休憩室を出て行った。
一人残されたしらさぎは、ソファーに横たわってはくたかを待つ。だが、そうしている内に瞼が重たくなってきた。何度か眠気に抗うように瞬きを繰り返したものの、いよいよ耐えきれなくなって、そのまま目を閉じてしまった。
懐かしいような、ほっとするような、そんな匂いがした。
はっとしらさぎの意識が覚醒した。と同時に、見慣れた休憩室の光景が目に入る。一瞬、どうしてこんなところで寝ているんだろうと思ったが、すぐに熱を出してしまった事を思い出した。
よく見れば、しっとりとワイシャツが濡れているような気がする。相当汗を掻いたのだろう。そして、意識を失う前にあれほど感じていた寒気は、不思議と感じなくなっていた。
「おっ、しらさぎ、気が付いたか?」
声が聞こえた方を見れば、サンダーバードとはくたかが少し離れた場所で何かを食べているようだった。再びふわりと優しい香りが鼻をくすぐる。と同時に、ぎゅう、と腹の虫が鳴いた。
「よかった、目が覚めたんだね」
「……あれ、サンダーバードも戻ってきたのかい?」
「ああ。元々今日はこっちに戻ってくる予定だったし。仕事も問題なく終わったから、お前が目を覚ますのを待ってたんだ」
「仕事が終わったって……え?」
しらさぎはハッとしたように窓の外を見た。ブラインドの向こうには駅前の商業施設の明かりが見えた。
ここに来たときは夕暮れ時だったはずだが、今は何時なのだと時計を見て、思わずえっと声を漏らす。
「もう二十四時なのか?」
「そうだよ。ざっと六時間近く寝込んでたんだぜ?」
「全然目を覚まさないし、呼吸は苦しそうだし……俺、心配で」
二人が席を立ってしらさぎの傍へと近づいてくる。そして呆然とするしらさぎの顔を覗き込むと、ちょっと顔色が戻ったかなと言いながら、はくたかがしらさぎの額に手を当てた。
「うん、熱も下がった気がする。気分はどう?」
「ああ、寒気は無くなったよ。まだ少し頭がぼんやりしているけど、寝過ぎたからかな」
「ひとまず熱のピークは越えたのか。良かった良かった」
サンダーバードがふう、とため息を吐く。彼は彼なりに心配してくれていたのだろう。
「後は宿舎に戻って自分のベッドで一晩ぐっすり眠れば、きっと良くなるさ」
「サンダーバード、はくたか、ありがとう。世話を掛けたね……」
不甲斐ないと俯くしらさぎに、サンダーバードが明るい声で言った。
「何を言ってるんだよ。世話を掛けられたなんて、これっぽっちも思ってないぜ」
「そうだよ。俺たちが勝手に心配していただけだし、しらさぎが気にすることは全く無いよ」
はくたかも頷く。その気遣いが今は嬉しかった。
「そういえば、何も食べずに寝ちゃったでしょう、何か食べる?」
「ああ……二人はさっき、何を食べていたの?」
良い匂いがしたのだと言うと、はくたかが用意するよ、と言って簡易キッチンへ向かうと、その中で何かを作り始めたようだった。電子レンジから発せられる音に混ざって、湯を沸かす音が聞こえる。
ほどなく、はくたかは小さめの器と箸を手にして戻ってきた。辺りに漂う香りは、確かに先ほど起き抜けに嗅いだ匂いだ。
「どうしたのこれ、やたら早く出来たようだったけど」
「しらさぎもよく知ってる、とり野菜みそ雑炊のもとで作ったうどんだよ。うどんはレンジで暖められるやつだから、雑炊のもとをお湯で溶いてその中に入れるだけなんだ」
「ああ、あの雑炊のもとか。そうか、ご飯に乗せてお湯を掛けて食べる以外にも、こんな食べ方があるんだな」
知らなかったよ、としらさぎが言うと、自分も最近教えてもらったのだとはくたかが言った。
「試しにこの前やってみたら美味しかったから、今日はサンダーバードにも食べさせたところだよ。また雑炊のもとを買い込んでおかなくちゃならないな」
差し出された器を受け取り、うどんに箸を入れた。暖かい器からはほかほかと湯気が上がると同時に、とり野菜みその香りが鼻をくすぐる。
「頂きます」
火傷をしないように少しずつ冷ましながら、うどんを啜る。とり野菜鍋の締めに作る煮込みうどんよりも、少し薄く優しい味が口の中に広がった。
空っぽだった胃は、早くうどんを寄越せと言うように、ぎゅうぎゅうと音を立てる。あっという間に器を空にして、ふうと一息吐くと、サンダーバードとはくたかが驚きの表情でしらさぎの方を見ていた。
「どうしたの?」
「いや、あっという間に食べちゃったなって思って……」
「ああ、お腹が空いていたみたいだ。それに、このうどんも美味しかったし」
「何ならもう一杯作ろうか?」
「いや、いいよ。ありがとう」
空になった器を片付けるため、ソファーから立ち上がろうと足に力を入れた瞬間、しらさぎの身体はバランスを崩してぐらりと傾く。倒れる、と思った次の瞬間、両脇からサンダーバードとはくたかに抱えられ、事なきを得た。
「何やってるんだよ、気をつけろよ」
確かに食欲も戻り寒気も消えたが、まだ身体が本調子ではないということなのだろう。うかつだったと少し落ち込む。
「ごめん……」
「無理すんなって。何なら宿舎に戻るときに抱えてってやろうか?」
サンダーバードが何か企んでいるようにニヤリと笑う。その手には乗らないよと、申し出を辞退する代わりに、しらさぎは手に持っていた器をサンダーバードに渡した。
「宿舎まで抱えてもらう必要は無いけど、これの片付けを頼むよ、サンダーバード」
「なんだよ、洗い物かよ。……まあ今日くらいはいいか」
しらさぎから器を受け取ったサンダーバードは、簡易キッチンでそれを洗うと、すぐにこちらへ戻ってきた。
「ちゃんと洗ってくれた?」
「洗ったよ。大体茶碗一つ洗うのにそこまで時間は掛からないだろ?」
それもそうかと思いながら、ありがとうと言うと、サンダーバードは照れくさそうに笑った。
「しらさぎ、今日はどうする? 宿舎に戻る?」
一息吐いたところではくたかに尋ねられて、しらさぎは首を横に振った。
「いや、今日はここで一晩休む事にしようと思っているんだ。また先ほどのように途中で倒れるような事があっては、君たちにも迷惑がかかるしね」
「でも、大丈夫? ソファーの上ではしっかり眠れないんじゃない?」
「いや、先ほどまで寝ていたけど、案外寝心地もいいし、一晩くらいなら大丈夫だと思うよ」
だから、そうさせてくれとしらさぎが言えば、はくたかと食器を洗い終えたサンダーバードは顔を見合わせて、仕方なく頷いた。
「しらさぎがそう言うなら……」
不安げな表情ではあったが、本人が良いと言っているのだからと、引くことにしたようだ。
「じゃあオレたちは宿舎に戻るけど、何かあったら遠慮無く携帯に連絡してくれよ」
「ああ、分かったよサンダーバード」
「おやすみ、しらさぎ」
「おやすみ、二人とも」
サンダーバードとはくたかは、しらさぎを残して休憩室を出て行った。時間はもう夜中の一時を回っており、二人もそろそろ休まねば明日の仕事に差し支えてしまう。しかもそれが、しらさぎの世話を焼いていたからとなれば、申し訳ない。そう思ったから、先に帰ってもらったのだ。
ようやく一人になって、しらさぎは身体をぐっと伸ばしてから、再び目を閉じた。今はとにかく寝て体力を回復しなければ。明日は一日休む事になるかもしれないが、それも仕方ないかと考えている内に、再び睡魔が襲ってきた。
明け方、窓から差し込む朝日で目を覚ました。
上半身を起こしてみる。怠さも寒気もどこかへ消え、普段と変わらぬ体調にほっとする。
寝ている間にまた汗を掻いたようで、身体全体がべたべたと気持ちが悪い。シャワーと着替えのために、一度宿舎へ戻るか、と考えている内に、また腹の虫が鳴いた。
「そういえば、まだうどんと雑炊のもとってあるのかな」
昨日はくたかが作ってくれたあのうどんをもう一度食べたい。そう思ったしらさぎは、簡易キッチンへ向かうと、戸棚を開けた。様々な保存食品に混ざって、あの雑炊のもとがいくつか残っている。
「後はうどんか」
戸棚から雑炊のもとを一つ拝借し、次は冷凍庫を開けた。そこには昨日食べたと思われるうどんが一パックだけ残っていた。最後の一つを頂く事に若干の躊躇いはあったが、後で補充しておくことにして、それを手に取った。
うどんは電子レンジで調理できるとはくたかが言っていたので、レンジに突っ込んで回している間にやかんに湯を沸かしておく。うどんが温まったのを確認して、それを器に移し、その上に雑炊のもとを乗せて、沸騰した湯を掛けた。フリーズドライされた雑炊のもとは、熱湯によってふわりと溶けるように器の中全体へ広がっていく。
「良い匂いだな」
立ち上る味噌ベースの香りを思い切り吸い込んで、しらさぎは頂きます、と手を合わせてそれを啜った。若干湯を入れすぎたのか昨日よりも味が薄い気もしたが、許容範囲だ。
昨日と同じくあっという間に食べ終えたしらさぎは、器を洗って片付けると、時計に目をやった。もう始発電車は動き出している頃だが、今日は午後から名古屋へ行くことになっていたので、まだ時間に余裕があった。
少し動き回ってみて、足下がふらつかない事を確認したしらさぎは、宿舎へ戻る事にした。シャワーを浴びて、さっぱりした状態で仕事に臨みたいし、サンダーバードかはくたかに、うどんを食べてしまったことを伝えなければならない。まだ誰もこの休憩室へ来た気配がないので、おそらく二人ともまだ宿舎にいるのだろう。
一晩を共にした毛布を畳んでソファーの隅に置くと、しらさぎは休憩室を後にした。
建物の外に出た途端、眩しい太陽の光を浴びて目を細める。今日は太陽の日差しに熱を感じることからも、熱は完全に下がったと見て良さそうだ。
雲一つ無い青空を見上げて、今日も暑い一日になりそうだと思いながら、しらさぎは宿舎への道をゆっくり歩いて行った。
おわり。