けんしんくんがやってきた!(コミックマーケット84での無料配布冊子より)


「はくたか、調子はどうだ」
「と、ときさん!?」
 食堂で昼食を食べていたはくたかの元へ、ときがやってきた。今日は本社で打ち合わせの予定があったのだという。
 はくたかの向かいに座ったときは、面白い話があると前置きした上で話を始めた。
「東日本と西日本が北陸新幹線の候補を募集していたことは知っているな」
「はい」
「その前に、新潟県の上越市が独自に募集をしていたことは?」
「それは、知りませんでした」
 皿の上に残ったハンバーグを食べながら、はくたかは首を横に振った。ときは話を続ける。
「その、上越市で公募した北陸新幹線列車名の募集結果が先日発表された。得票数一位となった名前にふさわしいと選ばれた人が、これから君たちが受けている研修に加わることになった。……ちなみに、本来ならば上位三人ほどが加わる予定だったのだが」
 そこまで言うと、ときは短く息を吐き出した。何だろうとはくたかが食事の手を止めてときの言葉を待つ。
「ああ、すまない。いや、大したことでは無いのだが……募集の結果、一位は上越市にゆかりのある武将、上杉謙信から取ったと思われる『けんしん』だったそうだ。なので、近々けんしんという名のライバルが加わるということになるな」
「そうなんですか。その『けんしん』さんはいつから研修に参加されるのですか?」
「それが、まだ誰がなるか上越市の方でも決めかねているようだから、もう少し後になるのではないかと言われている。今研修を受けている面々は特急や急行など、列車としての経験がある人が多いから、上も何かと扱いやすいだろうが、これまで『けんしん』という名の列車が走った記録はない。だから、全くの一般人を新幹線に仕立て上げることになる」
 ときが言う事も分かる。はくたかを初めとした在来線の特急達は、一般の人達とは違う時間の流れに身を置いている。外見の年齢が、時間ではなく自分が使用する車両に左右されるのだ。
 また、新幹線は特急とも違っており、基本的に歳は取らない。だから今はくたかの目の前にいるときも、見た目は三十半ばほどに見えるが、実際はもっと長く生きているし、この先はくたかが引退し、一般の人達と同じように老いたとしても、ときはいまの見た目のまま生き続ける。新幹線車両が更新され、新しい車両が与えられる限り。
 そういう、一般の人とは少し違う部分を―もちろん他にも細かい違いはいろいろあるのだが―最初から説明し、そして理解してもらうには時間が掛かる。はくたかも最初に選ばれたときはそうだったから、その辺りの事情はよく分かる。
「それなら、合流はもう少し先になりそうですね」
「ああ。上越市もせっかく募集して一位になった名前だからと、何とか秋までには間に合うようにはしたいと思っているようだが……適切な人を見つける事は、なかなか難しいものだ。このような、特殊な仕事は」
 秋には誰が北陸新幹線の列車となるかが発表される予定となっている。少なくとも八月までにその名を負って立つ候補者が研修に参加しなければ、選考の対象外となってしまう。果たして上越市は、けんしんと言う名の候補者を送り込む事が出来るのだろうか。
「そういえば、新しく参加される予定なのはけんしんさんだけなんですか? さっき、本当は三位まで加わるはずだって……」
 ときから『けんしん』の話しか出なかった事に気付いたはくたかが、素朴な疑問を口にした。途端、ときは苦笑し、そうだったなと話を続けた。
「それが……二位は、『とき』だったんだ。私はもう上越新幹線として走っているから、さすがに参加は出来ないだろう?」
「そ、それはそうですね……」
「ちなみに三位は君だ、はくたか。その後はえちご、みょうこう、さくらと続くのだが……えちごは夜間快速、みょうこうは信越線の普通列車だからまだ可能性はある。だが、さくらは九州新幹線の列車だ。さすがに北陸へ引っ張ってくることは出来ないだろう。元々上位三名という話だったから、結果的に『けんしん』のみとなったわけだが……いや、色々と予想外の結果だったよ」
 そう話すときは、若干疲れているように見えた。何かあったのだろうかと様子を伺うはくたかに気付いたときは、何でもないというように首を横に振る。
「新潟支社の方でイベントがあったんだが、それが思った以上に厳しいものでね。普段整備された平坦な道ばかり走っている私には少々荷が重かったようだ」
「イベント、ですか?」
 どのような、とはくたかが聞くまでもなく、ときは話を続けた。普段滅多に表情を崩さない―少なくともはくたかの前では―ときが、僅かに眉をひそめ、うんざりしたような表情をしながら。
「ああ。山登りだ。しかも、走りながらな」
「……それは、ハードですね。あ、新潟支社での行事ということは、北越さんも参加されたんですか?」
「北越? やつは早々に欠席の連絡をしていたよ。何でも金沢で重要な打ち合わせがあるとか言っていたが、それも本当かどうか」
「そ、それは……」
 なんだかこのまま話を続けると、気付かぬうちに北越にとって不利な発言をしてしまいそうな気がして、はくたかはそれ以上話を広げることは止めておいた。代わりに、そうだ、と隣の椅子に置いてあった鞄を開けると、薄い緑色の袋を取り出して、ときに差し出した。
「よかったら、これ使って下さい。効くかどうかはわかりませんが、スッとして気持ちいいですよ」
「何だ? これは」
「疲れた足に貼るとすっきりするシートだそうです。前に同僚のサンダーバードに教えてもらってから、俺も走り回ったりして、足が疲れたときに使うことがあって」
 東京での研修は、内容に応じて様々な場所へ移動して行われる。設備や教材が一所に集まっていないのだ。土地代やテナント料が高い東京では致し方ないことなのだろうが、お陰で連日慣れない場所を歩き回らされたはくたかは、通常の業務を行っている時は気にならなかった足の疲れを度々感じるようになっていた。
 ときははくたかからそれを受け取ると、物珍しげに袋を裏返したりして眺めていた。そして、
「ありがたく頂いておこう」
「どうぞ」
 その時、昼休みの終了を告げる予鈴が鳴った。
「邪魔してしまったな。午後も頑張れよ」
「は、はい! ありがとうございます!」
 立ち去るときの背中をぼんやりと見ていたはくたかだったが、まだ食器に昼食が残っていた事を思い出し、慌てて口の中に掻き込んだ。


 数日後。
 その日は空に寒気が流れ込んでいるとかで、七月末にしては涼しい日だった。
 最初の研修の教室にたどり着いたはくたかは、他の候補者に混ざって空いていた席に腰掛ける。相変わらず候補者同士は殆ど会話を交わさないし、発表が秋に迫ったこともあり、より一層ピリピリとした空気を漂わせていた。その空気が苦手なはくたかは、早く金沢に戻りたい、などと考えながら、与えられたテキストをぱらぱらと当てもなく捲る。
 時間になり、講師を務める社員とともに、一人の男性が部屋に入ってきた。ぴん、と張り詰めたように伸びた背筋、きりっとした顔立ち。だが、何よりも目立っていたのは、その身長だった。隣に立つ講師と並んでも十センチ以上は差があるように見える。もしかすると、はくたかよりも小柄かもしれない。
 途端にざわつく教室内を見渡して、講師の男が静かに、と二度、手を打った。
「紹介しよう。今日からこの研修に加わる『けんしん』だ。君たちも知っていると思うが、彼は上越市の後押しを受けて急遽参加することになった」
 挨拶を、と促されたけんしんは、半歩前に出ると、両の手をぐっと握りしめて身体の真横にぴたりとくっつけた体勢で、座っている他の研修生の方をぴたりと見据えると、大きな口を開いた。
「ただいま紹介にあずかりました、けんしんです。私の名前はひらがなですが、由来は皆様もご存じの名将、上杉謙信よりお借りしたものになります。まだまだ知らない事も多く、未熟者ではありますが、これからどうぞ宜しくお願い致します」
 その声は、いわゆる「通る」声だった。あの小さな身体から発せられているとは思えない迫力のある声に、誰もが圧倒されている。挨拶が終わり、けんしんが深々と頭を下げた後も、教室内がざわつく事はなく、ただ誰もがけんしんの一挙一動に注目していた。
「空いている席に座りなさい」
 そう言われたけんしんは、辺りを一瞥すると、すぐに適度に教壇に近い席を見定めたようだった。講師の横から動いてその席へと歩いて行く。その間、机と机の間を歩く姿を、皆がじっと見ていた。
 けんしんが席に着席した事を確認した講師は、
「それでは、今日の研修を始める」
 と声を張り上げた。


 研修が終わり、皆が次の場所へ移動を開始したその時、はくたかは後ろから声を掛けられた。驚いて振り返ると、そこには今日から研修に加わっているけんしんが立っている。
 朝、その姿を見た際に思った通り、はくたかより身長が低いようだった。まっすぐ視線を向けた先には、顔ではなく額が見える。ここにも、金沢にも自分より身長が低い男性はいなかったから、どこを見れば失礼に当たらないかと視線を彷徨わせていると、
「はくたか殿、ですな」
 と名前を呼ばれた。
「そうですが……どうして俺の事を」
 けんしんは壇上で自己紹介をしたが、その他の研修生は誰一人として自己紹介などしていないはずだ。どうして自分がはくたかだと分かったのだと訝しげな表情をしていると、けんしんはにこりと笑って、
「あなたは今、現役で走っている特急。それに、上越市の北陸新幹線の愛称募集では三位となった方ですから。知らない人などいないでしょう」
「それは……どうでしょうか。俺の事など……」
「自分を卑下なさるな。私のライバルがそうでは、張り合いがありません」
 けんしんの口から飛び出た言葉に、はくたかは驚く余り二の句が継げなかった。いや、朝ここに来た時から驚かされてばかりだ。
 はくたかが何も言わないことを意に介した様子も無く、けんしんは話を続ける。
「私にはJR殿の後ろ盾はありません。ですが、上越市の代表として選出された以上、ここでの競争に勝ち、新幹線となる使命がある。容易い道のりだとは思っていませんが、やはり明確なライバルがいた方が、より一層競争にも力が入りましょう。何せ、戦ですから」
「戦、ですか」
「そう。北陸新幹線となるための、戦です。例え現役特急のはくたか殿でも、選ばれるとは限りません。だからここにいるのでしょう。誰よりも北陸新幹線にふさわしい、と周りに認めてもらえるようになるために」
 けんしんの語る言葉にはっとした。それは、はくたかがここに初めて来た時に思った事だ。だが、数ヶ月の間、繰り返される研修の中でいつしかその志を忘れていたのだ。日々の研修と元々の業務をこなす上で、いつしか最初の決意を思い出す回数が減り、ただ目の前の仕事をこなすことしかしていなかった自分に気付いたはくたかは、さっと顔面を紅潮させた。
 恥ずかしくて仕方がなかった。だが、ここで逃げ出す訳にはいかない。それは、自分をライバルだと呼んでくれるけんしんの期待を裏切ることになるのだから。
「……ありがとうございます、俺も、頑張ります」
「それならば結構。それでは」
 そう言い残して、けんしんはさっさとはくたかの横をすり抜けて先へと行ってしまった。一人残されたはくたかの後ろには最早誰も残っていない。だが、何故か上手く足が動かせなかった。
 このギリギリの時期に研修に参加することになったけんしんの不安や焦りはいかほどのものだろう。だが、それを全く感じさせぬ、達観した言動にはこちらが驚かされるばかりだ。人選に時間が掛かっていたことも頷ける。
「……俺も、頑張らなければ。後からやってきた人に、北陸新幹線の役目を譲るわけには行かない」
 ぐっと手のひらを握りしめる。はくたかは、新たなライバルの登場に、久しぶりに胸の内が熱くなるのを感じていた。