夜の空気はまだ苦い(登場人物紹介読本より)
一日を終えて、宿舎にある自分の部屋に帰ってくると、ふわりと微かに太陽の匂いがした。それで、自分がいなかった日中の間に、部屋の中に日が差していた事を知る。
太陽光をたっぷりと吸収したであろうベッドの上の掛け布団からその匂いは漂っていた。少しでも意識を逸らせば消えてしまいそうなほど微かな匂いだったけれど、それははくたかの心を幸せな気持ちにしてくれた。
今日もとても良い天気だった。雲こそ幾つか空に浮かんでいたけれど、冬によく見る、空を覆う厚い雲とは違い、まるで綿菓子を千切って並べたような雲だ。
この季節になると見られる雲を見て、サンダーバードが「おいしそうだ」と言うのが毎年恒例になっている。そして今日もまさに、その言葉を金沢駅で会ったときに聞いた。
『おい、はくたか。ちょっと見てみろよ。今日の雲って綿菓子みたいじゃないか?』
『ん?あ、ああ……言われてみればそうだね』
『いいよなあ。美味しそうだよなあ。雲が全部綿菓子で出来てるなら、オレ、吹雪いても許せるな』
変なところで夢見がちなんだから、とはくたかは内心苦笑した事を思いだした。全く、あの同期は時々こんな風に突然おかしな事を言っては、はくたかを笑わせてくれる。同僚のしらさぎなど最早呆れて近頃はつっこみすら入れてこない。
今日の出来事を回想しながら手にした鞄を椅子の上に置き、そのまま窓際に近づくと、一日閉められていた窓を開け放った。空気が動いて籠もっていた空気が四散していく。先ほどまで微かに感じていた太陽の匂いは姿を消し、代わりに夜の空気が部屋に入ってきた。
昼間はあんなに暖かかったのに、夜になればまだ空気は冷たい。それでも、冬のそれとは違う匂いがする、とはくたかは思った。冬の空気を冷たく苦いと表現するならば、春の空気には僅かに甘さを感じる。
胸一杯に冷たい空気を吸い込んでいると、隣の部屋の方からがちゃがちゃと窓の鍵を開ける音がした。少しだけ身を乗り出して隣の方を見ると、同じように開け放たれた窓からサンダーバードがひょっこりと顔を覗かせる。
「よ。元気?」
「何だよ。さっきも会っただろ」
「元気ならいいんだ。だって、オレ、そうじゃないと困るし」
「はぁ?何言ってるの。意味が分からないよ」
またおかしな事を言っているとはくたかはくっくっと声を潜めて笑った。サンダーバードの表情はここからでは窓の枠に隠れてよく見えない。
「でもさ、春らしくなってきたよな」
もう夜も遅い時間だからか、普段よりも少し控えめのトーンでサンダーバードが言った。殆ど独り言に近い言葉だったが、はくたかはこくりと頷いて相づちを打つ。
「そうだね。日中は暑いくらいになったよね、外走ってると気持ちがいいくらいだ」
「こうやって春が来た事が分かると、冬頑張ってよかった、って思うよな」
「うん」
そう言いながらも、まだ雪の残る越後湯沢の事を思う。あの辺りは金沢よりも更に春が遅く、四月に入っても多くの雪が残っているくらいだ。今年は少ない方だと言うが、それでも山の方ではまだ営業しているスキー場も幾つかある。
雪にはあまり良い思い出がない。数年前はあまりの豪雪で越後湯沢に入れず、やむを得ず北越と同じく長岡でときと接続した事もあったし、吹雪の所為で速度規制が掛かって遅延、なんて最早数え切れないくらいあった。だから、毎年秋になると、今年の雪は少ない方が良いのに、と思う。
でも、そんな雪のことをときは好きだと言っていた。雨だと憂鬱になるのに、雪になった途端嬉しくなるのだと。もうずいぶん昔に聞いた話だったが、今でもそれははくたかの心の奥底に、溶けない根雪のようにして残っている。だから、雪を完全には憎めないのかも知れない。
そんなことを考えていると、珍しいことに、暫く黙っていたサンダーバードが口を開いた。こちらを向いているようだったが、相変わらず表情はよく見えなかった。
「……お前、今別のヤツの事考えてただろ」
「えっ!べ、別にそんなこと」
口ではそう言いながら、図星を突かれたことに狼狽えると、サンダーバードは笑ったようだった。けれどその笑いは先ほどの笑いとは少し違う、僅かに湿っぽさを含んだ笑いで、はくたかはどうしてサンダーバードがそんな笑い方をしたのか分からなかった。
「サンダーバード?」
「そろそろ寝るか。明日も早いしな」
「う、うん」
「明日も頑張ろうぜ」
そう言ってサンダーバードは窓を閉めた。が、はくたかも同じようにすぐに窓を閉める気にはならず、暫くそのままぼんやりと外を眺めていた。人の姿はなく、街灯がちかちかと不定期に点滅しているのが見える。
そのうち寒くなってきたので、ようやくはくたかも窓を閉めることにした。閉める前にともう一度夜の空気を深く吸い込んでみる。
春といえども、夜の空気はまだ苦い。甘さを感じられるようになるのはまだ先かと思いながら、はくたかも窓を閉めた。