ある台風の日の話(擬人化王国5での無料配布冊子より)
九月二十日。台風が徐々に日本列島に接近し、各地で雨風が強くなってきた頃。
金沢は強めの雨は断続的に降っているが、まだ風はそれほどでもない状態だった。
「いやー大変だった」
そう言って休憩室にやって来たしらさぎは、全身ずぶ濡れの状態だった。休憩のために部屋にいたはくたかがどうしたのと言って駆け寄ってくる。
「今名古屋がひどくてさ。私のこの後の名古屋行き列車は全部運転見合わせ。川が増水して危ないんだ。米原までは行くけど」
「そうなんだ。あ、タオルいるよね」
持ってくる、と部屋の奥にある棚の所まではくたかがタオルを取りに行ってくれている間に、しらさぎは手に持っていた荷物を床に置くと、ずぶ濡れになったジャケットを脱いだ。水を含んだそれは大変重く、脱いだ途端に肩が軽くなった気がした。そのままそこで絞ったらさぞかし水が出てくるだろう。床に投げるとべちゃっという音がした。
「はいこれ。まだいっぱいあるよ」
「ありがとう、助かるよ」
受け取ったタオルで頭を拭きながら、靴と靴下も脱いだ。水は下着までぐっしょりと濡れていて、はくたかがいなければこの場ですべて脱いでしまいたい位だったがそれはさすがに止めておいた。
それでも、このまま濡れた服を着ていては風邪を引いてしまうとはくたかに言われて、ネクタイを外し、シャツを脱いでいた所に、同じくずぶ濡れのサンダーバードがやって来た。
「おーう、ひどい目にあった……て、何だ、しらさぎも同じか」
「やあサンダーバード。君もひどい有様だね」
「お前に言われたくないな。って何だその格好」
「仕方ないだろう濡れて気持ち悪いんだから」
「お疲れサンダーバード。はい、タオル」
「おお、サンキュ」
はくたかからタオルを受けとったサンダーバードは、わしわしと髪の毛を拭き始める。その勢いで水滴が飛んできて、しらさぎは顔をしかめた。
「ちょっと離れてくれ」
「何でだよ」
「せっかく拭いたのに、君の水滴が飛んでくるんだけど」
「そりゃ悪かった」
サンダーバードは五歩ほど移動して、再度わしわしと頭を拭き始める。やれやれ、セットとかしてないやつはいいよなあと思いながら、しらさぎははくたかに、何かビニール袋とか無い?と声を掛けた。
「この濡れた服入れておきたいんだけど」
「ちょっとまって……ゴミ袋用のポリ袋なら……」
「それって未使用だよね?」
「当たり前だろ」
あった、とシンクの下にある引き出しからゴミ袋を引っ張り出してきて、はい、と一枚しらさぎに手渡した。サンダーバードはいる?と声を掛けると、いると返事が返ってきたので、もう一枚をサンダーバードに手渡す。
「二人とも早く宿舎に戻って風呂入って来なよ。風邪引くよ」
「そうだね」
「濡れたままじゃ気持ち悪いもんな」
その時、がちゃりと扉が開いて、北越が顔を覗かせた。途端、上半身裸のしらさぎが目に飛び込んできて、驚いたように目を丸く見開いた。それを見たはくたかが、元々目が細い北越がこれほどまで見開いたのを見たことがあっただろうかと考えたほどだ。
「なんだいその格好。ここが休憩室だからってそんな格好してもいいってことにはならないよ」
「スミマセン、雨の所為で制服がずぶ濡れになったので身体を拭いていました」
「それにしたってこんな入り口前でやらなくても」
「あまりずぶ濡れのまま歩き回って部屋を汚すよりは良いかと思いまして」
にこやかに返すしらさぎに、北越は肩をすくめてそれ以上何も言わなかった。代わりに、明日の予定表が出てたよと言って、奥にいたサンダーバードに手渡す。
「あんたたち始発から運休らしいよ」
「え、マジっすか」
「それはありがたい」
「ただし」
北越はそこで言葉を切り、にたりと笑った。
「金沢と和倉温泉の間だけは通常運行だって」
「はあ!?」
素っ頓狂な声を上げたのはサンダーバードだ。
「……あ、ほんとだ。そう書いてある」
北越にもらった紙を見直したサンダーバードは、確かに運行予定の所に「金沢〜和倉温泉間は通常通り運行」と書かれている事に気づいた。上からそれを覗き込んでいたしらさぎも、確かに、と頷く。
「でも誰が乗るのこれ。金沢から和倉温泉まで特急に乗っていく人って殆どが県外から来る人だと思うんだけど……」
「だよなあ。それに明日だろ?西日本に台風大接近の頃合いじゃないのかこれ」
「だよね……嫌だよもうずぶ濡れになるのはさ」
「普通列車や私とはくたかにはまだ運休連絡は無いから、県内は普通に走らせるつもりなんでしょ、上はさ」
そう言って部屋を出て行こうとする北越に、はくたかが声を掛ける。
「これから新潟ですか?」
「そう。明日は新潟から出るし、何かあったら連絡よろしくね」
「はい、分かりました。お気を付けて」
ひらりと手を振り、北越は出て行った。サンダーバードは受け取った紙をまだ見ていたが、突然、
「オレは認めないぞおおおーーー!!」
と言ってその紙をびりりと破いた。今回ずぶ濡れになったのが相当効いていたらしい。
「ちょっと、サンダーバードなにすんの!」
「あーっ!!せっかく北越さんが持ってきてくれたのに!」
はくたかはサンダーバードの両手からそれぞれの紙片を奪い取ると、別のテーブルの上に広げて貼り合わせる作業に入った。はっと我に返ったサンダーバードがごめんと謝ったが、後の祭りだ。はくたかは返事をすること無く、黙々とセロハンテープで紙を貼り合わせている。
「あんな紙破いた所で何も変わらないし、むしろはくたかの心証を悪くしただけだったよ、君は」
「ほんとにそうだな……」
がくりと項垂れ、濡れた上着と鞄を手にサンダーバードは出て行った。彼はまだこれから運転予定があるのだ。しらさぎも名古屋行きは運休したけれど、米原行きの電車がまだ残っている。
「はくたか、私たち一度宿舎に戻るよ」
「あ、うん、分かった」
そう返ってきたものの、はくたかはこっちを見ることはせず、必死に紙片と戦っている。
しらさぎが廊下に出てドアを閉めようとした時に、部屋の中から出来た!というはくたかの歓声が聞こえた気がした。
そして翌日。
名古屋方面は終日運休だが、まだ和倉温泉方面への運転は見合わせていなかったので、いつでも走れるようにと少し早めに休憩室へ行ったしらさぎが目にしたのは、昨日サンダーバードが破いてはくたかが修復していたあの紙だった。
見事に貼り合わせられたそれは、連絡事項用のホワイトボードに貼り付けられていた。が、はくたかは朝から通常通り走っているようで、姿は見えない。
テレビはひっきりなしに台風情報を流している。そして金沢も徐々に雨と風が強まってきた。その様子を見て、運休するのも時間の問題だなと思っていた所へ、サンダーバードがやって来た。
「おはよう」
「おう。ひとっ走りしてきた」
「七尾線?」
「そう。七時に和倉を出るやつが一本あるからさ。あれは通勤客も乗るし、まあ走らせる意味あるだろうって……雨は降ってたけど、まだ風がそんなに強くなかったから良かったよ」
「そっか。コーヒー淹れようと思うけど飲む?」
「飲む」
じゃあと備え付けのミニキッチンでコーヒーの準備をしている間、サンダーバードはソファーに座ってじっとテレビを見ていた。ドリップマシンにセットして動き出した事を確認したしらさぎがサンダーバードの傍に戻ると、なあ、と声を掛けられる。
「あと三年経ったら、ここに来るのはオレとお前だけになるんだよな」
「……そうだね」
「信じられないよなあ。はくたかと北越さんがいなくなるって……」
「でも、雷鳥さんもいなくなったじゃない」
「そうだな、そんな風に慣れていくんだな、いつかは」
コーヒーメーカーから香ばしい香りが漂ってきたが、しらさぎはその場所から動けなかった。
サンダーバードが馬鹿をやっても、呆れて怒る人がいなくなる。あんな風に紙を貼り合わせてくれる人が、いなくなるのだ。
頭では分かっていても、実感は沸かない。きっと、その日になるまでは分かることなんか無いんだろう。心の準備なんか出来るはずが無いのだ。その日が来ることを想像できないのだから。
「ただでさえ湿っぽい日なのに更に湿っぽい話するのはやめなよ」
「ごめん」
コーヒー入れてくる、としらさぎはソファーから立ち上がった。三人揃いで買ったカップの、サンダーバード用と自分用を棚から取り出してコーヒーを注いだ。暖かい煙に涙腺が緩みかけたが、ぐっと堪えた。
それから黙ってテレビを見ながらコーヒーを飲んでいると、北越とはくたかが入ってきた。
「いやーまいった。こっちも午後から運休が決まったよ。新潟に帰れないよ」
「俺も運休だって午後から。あ、でも夜の福井行きだけは金沢と福井の間だけ走らせるんだって。その頃には台風も通過してるだろうし」
「しらさぎとサンダーバードも午後まで運休発表されてたよ」
ほい、と北越が紙を差し出した。今度はしらさぎが受け取って確認する。しらさぎは終日運休と書かれていたが、サンダーバードの所にはそう書いていない」
「あれ、オレは?」
「夜は動かすつもりみたい。さすがに雨風止んだら走らざるを得ないでしょ」
「ええー!!オレだけ!?」
「俺も走るよ福井までだけど」
「一部区間じゃん!」
よく見れば、七尾線を走る列車もすべて運休となっていて、しらさぎは内心ほっとした。いつ止まるかも分からない中走るのは辛い。
「まあまあ、金沢と和倉温泉の間は全部運休になったし、いいんじゃない?」
「お前は終日運休決まってるからって……!!」
まだぎゃーぎゃー文句を言っているサンダーバードだったが、もはや誰も耳を貸そうとしなかった。コーヒー淹れましたけど、としらさぎがはくたかと北越の分もカップに入れたものを持ってきたので、二人もソファーに座り、四人でテレビを見ながら休憩することになった。
昼過ぎには金沢もかなりの強風となり、横殴りの雨が降っていたが、それも徐々に収まってきていた。これなら夕方からは走れそうだねと北越が言うと、サンダーバードは頬を膨らませてそうですね、と嫌そうに言う。
「あれ、走りたくないの?」
「オレだけってのが嫌なんです!みんな運休なのにオレだけ……」
「まだそんな子供みたいな事言ってるの?それだけ需要があるってことじゃない」
はくたかにたしなめられても、まだブチブチ文句を言っていたサンダーバードに、はくたかが詰め寄る。
「そんなに走りたくないなら、君がはくたかになって三年後に廃止になってくれてもいいんだよ?俺が代わりに大阪まで走ってあげるよ。それに今日だって、好きで運休しているんじゃないんだからね!」
「は、はい……ごめんなさい……」
今にも胸ぐらを掴みかからんとする勢いでそう言われて、サンダーバードは顔を引きつらせた。分かったならよろしい、と再びはくたかはソファーに戻っていく。
「お、オレ、準備してくる!」
そう言ってサンダーバードは逃げるように休憩室を出て行った。残ったしらさぎと北越は顔を見合わせ、けらけらと笑う。はくたかは頬を膨らませて、だってあんな事言うから、と零していた。
「走りたくても走れなくなる人もいるのに、贅沢だよサンダーバードは」
落ち着いて、と隣に座っていた北越がはくたかの肩を叩いた。サンダーバードだっていつもああ思ってるわけじゃ無いよとフォローをするが、根が真面目なはくたかはサンダーバードの行動が許せなかったのだろう。
「あれでも、ちゃんとやるときはやるじゃない。サンダーバードは一人だけ行かなくちゃならないのが嫌だったんだよ、仲間はずれみたいでさ」
「まだまだガキだねえ。雷鳥がいたらきっと早く行けって怒鳴り散らしてただろうけど、今回はそれをはくたかが言ってくれたからね」
「効果てきめんですよ。特にサンダーバードの場合、はくたかに言われたんじゃ言い返せないですし」
再びケラケラと笑うしらさぎと北越につられて、はくたかも少し笑った。
その頃、サンダーバードは金沢駅の改札前にいた。
『サンダーバード号は強風のため米原に迂回しての運転になります』
そう書かれたホワイトボードを見て、叫んだ。
「米原まで行けるんならしらさぎだって走れるじゃないかよ米原までさあ!!」
でもはくたかが怖いので休憩室には戻れない。とにかくはくたかに機嫌を直してもらうために、帰りはお菓子を買って帰ろうと決意したサンダーバードなのだった。
雷鳥無き今、サンダーバードにとって一番怖いのは、台風でも雪でも風でもなく、はくたかに機嫌を損ねられることなのかもしれない。