雪の日の話


「米原、米原です。東海道新幹線、東海道線はお乗り換えです……」
 ざわざわと乗客が降りていく様子を見ながら、しらさぎはようやく一息吐いた。この列車はここまで。暫く休憩した後で今度は金沢方面へ向けて走っていく事になる。
 米原駅は在来線部分がしらさぎが所属するJR西日本の駅で、もう半分の新幹線部分はJR東海の駅だ。ホームに掲げられた駅名標も、在来線と新幹線とでは違う。新幹線のホームへ行ったことはないが、在来線ホームから新幹線ホームのガラス越しに向こう側が見えるので知っているだけだ。
 ただそれだけだというのに、はくたかには物知り扱いされるから困る。
 大体走り始めた年で先輩、後輩というのであれば、しらさぎは紛れもなくはくたかの後輩だ。先代のしらさぎが長い間頑張ってくれたお陰でーー雷鳥とサンダーバードのように、先代が存在するまま新しい特急がやって来るのは珍しいーーしらさぎが今の車両に置き換えられたのは2000年に入ってからだった。それなのにはくたかは、自分より年上で落ち着いているからという理由でしらさぎの事を先輩のように慕ってくれている。
 そんな同僚の事をしらさぎは好ましく思っていた。もちろん、もう一人の同僚であるサンダーバードがはくたかに抱いている思いとは違い、人として、そして同じ特急として、だが。
 そんなことを考えながらしらさぎは車両の先頭部分を軽く撫でた。ここに来る前に洗ったばかりだというのに、既に汚れが付着している。しらさぎの手にうっすらと灰色が付いた。それを眺めながら、白いと汚れが目立って困るなあ、と思う。
 その時、轟音と共に新幹線のホームをのぞみが通過していくのが見えた。ホームに止まっているひかりが肩を竦めてのぞみが通り過ぎるのを待っている。しらさぎに乗ってきた乗客達は既にひかりの中に収まり、発車を待っているのだろう。
 のぞみが通り過ぎてから暫くすると、プルルル、と味気ない発車ベルが鳴り響いて、止まっていたひかりがゆっくり動き出した。すぐにどんどんとスピードを上げて名古屋方面に向かって走っていく。反対側のホームには新大阪方面へ向かうひかりがやって来て、しらさぎに乗り換える乗客を吐き出し、代わりに寒い中ひかりを待っていた乗客達を乗せていく。
 それが米原駅でのいつもの光景だった。新幹線のホームと在来線のホームがほぼ同じ高さにあるのは、はくたかに言わせれば羨ましいらしいが、新幹線達に対して好意を抱いていないしらさぎにはどうでもいい話だった。むしろ新幹線だけを高架に隔離するなりしてくれた方が静かでいいんじゃないかとすら思ってしまう。彼らはかなりのスピードで走る代償として、相当の騒音と振動を辺りにまき散らしていくのだ。特に米原に停車しないのぞみは酷く、彼が通り過ぎる度に耳を塞ぐことになるのがしらさぎは気に入らなかった。
 その点もう一つの接続駅である名古屋駅では、在来線の数が多いからしらさぎの使用するホームと新幹線達のホームはかなりの距離があるし、名古屋駅はあののぞみですら停車する駅だから、そこまで騒音に悩まされることはない。それに、他の特急や普通列車が多く存在する名古屋駅では、しらさぎの存在など微々たるものだった。何せ、東海の本拠地にあって、西の特急であるしらさぎは完全に部外者だったから。
 その時、おーいと誰かの声が聞こえて、反射的に顔を上げたしらさぎが見たものは、新幹線ホームに設置された窓から身を乗り出して大きく手を振るこだまの姿だった。
「……何やってるんだあの人は」
 さっと辺りを見回して、彼が一体誰に手を振っているのか探した。が、それは無駄な事だとすぐに思い知る。何せ、ホームどころか目の届く範囲にいるのは、しらさぎただ一人だったのだから。
「無視するなよ!」
「在来線に何の用事ですか」
 普段散々馬鹿にされているだけあって、多少の嫌みを込めてそう言ったが、こだまは聞こえなかったのか聞こえないふりをしたのか、とにかくあっさり流されてしまった。代わりに、ようやく反応を示したしらさぎにニヤリと笑う。
「別に。暇そうだったから声掛けてみただけ」
「それはどうも」
「おまえさぁ、そんなだからのぞみに目ぇ付けられるんだぞ?」
「元々こういう性格なので」
「ったく、可愛くないなあ」
 とりつく島もないしらさぎの返事に、こだまは顔をしかめた。が、別に自分とこだまの仲が悪くなった所で、列車の接続に影響が無ければ問題ないとしらさぎは思っている。接続は自分たち特急ではなく、もっと上の人が決める事だから、それを無視することはしらさぎにも、こだまにも、そしてのぞみやひかりにも出来ない。無視すればすぐに乗客からの不満として本体へと跳ね返り、どうして勝手なことをしたと怒られるのが目に見えている。
 それを新幹線の連中も分かっているから、例えしらさぎが気に入らないとしても、言葉や態度以上の嫌がらせはしてこないのだ。
「今日の夜からまた雪が降るってさ。おまえ、今日はまだ名古屋に行ってないだろ?今朝の朝礼でそんなこと言ってたからさ」
「……それはどうも有り難うございます。気をつけます」
 気をつけるべきはそっちだろう、と思わないでもなかったが、黙っておく。
「今年は暖冬だと思って油断してたなあ。融雪用スプリンクラーの点検はしていたけど、本格的に動くのは今年初めてだ」
「スプリンクラーが必要なほど、積もりますか?」
「分からない。でも、米原だからなあ」
 諦めたようなこだまの口調に、しらさぎは思わず苦笑し、そうですね、米原ですからね、と初めて賛同を返す。
 そう、ここは米原。毎年雪の季節に新幹線の遅延を引き起こす難所なのだから。


 先に出発時間を迎えたこだまは、ゆっくりと名古屋方面へ向かって走っていった。その姿を見送りながら、しらさぎも金沢に向かって出発する。
 しらさぎが走る区間には雪が積もるところもそれなりに存在する。今年はこだまが言うように暖冬で、数年前のように降った雪が凍って全列車が遅延するような、そんな大事はまだ起こっていなかった。二月に入ってもこの調子だったので、今年はもう降らないのかも知れないなと思っていたのだが、天気は予想を簡単に裏切ってくれる。
 厚い雲で覆われた空を見上げる。確かに雪が降ってきてもおかしくない天気だ。風も冷たく、海側から吹き付ける強い風がしらさぎの行く手を阻もうと襲いかかってくる。北陸の冬らしい光景だった。
 福井、金沢と停車する度に米原から乗せてきた乗客が徐々に少なくなり、終点である富山に着く頃には各車両に数人程度になっていた。平日の午後なんてこんなものだ。
 乗客が全員降りたことを確認してから、しらさぎは車両から降りる。富山の空もどんよりと曇っており、立山連峰の姿も見えなかった。
「あ……降ってきた」
 ひらり、と白いものが目の前を横切っていったかと思えば、続けざまにひらりひらりと空から雪が落ちてくる。今はレールの上ですぐに溶けてしまう雪も、夜になり辺りの空気が冷えると、溶けずに積もっていくだろう。
「これだから冬は嫌いだ」
 誰にも聞こえないよう、ごく小さな声で愚痴を漏らすと、背後から名前を呼ばれた。愚痴を聞かれたかと心臓が大きく跳ねたが、すぐに声の主が誰なのか思い当たって胸を撫で下ろす。
「しらさぎー!」
 再度名前を呼ばれ、聞き慣れた声に振り向くと、そこにはしらさぎの予想通り、はくたかがいた。しらさぎが振り返って手を上げると、こちらへ走り寄ってくる。
「はくたか。君が富山にいるのは珍しいね」
「ちょっと用事があって……すぐに戻るんだけど。あの、今日から全国的に大雪なんだって。もう新潟の方は大分降り始めてるけど、こっちはまだみたいだから、知らせようと思ってさ」
 よく見ると、はくたかが着ているコートが僅かに濡れている。どうしたの、と色が変わった肩の部分を撫でると、そこはひやりと冷たかった。
「直江津でみぞれに降られたんだ。もう今は雪に変わっていると思うけど」
「早く乾かさないと君が風邪を引くよ」
「もうすぐ金沢に戻るから、休憩室で乾かすよ」
 ありがとう、とはくたかが言うので、何が、と返す。その返事にはくたかは笑って、何でもないよと言った。はくたかがそう言うのならば、しらさぎはそれ以上追求はしない。
「じゃあ俺は金沢に戻るよ。また向こうで」
「あ、はくたか!」
 くるりと踵を返したはくたかを、しらさぎは思わず呼び止めていた。何か言い忘れたこととか、特別言いたい事があったわけじゃないのだが、ここで呼び止めなければならない気がしたのだ。
 しかし、続ける言葉が思いつかない。何でもない、と言ってしまえば良かったのだが、僅かに期待を覗かせているはくたかの前に、その言葉は封じ込めざるを得なかった。
「……今度、米原に連れて行ってあげるよ。見たいって言っていたよね、在来線と並んでいる東海道新幹線のホーム」
 この状況を打開するために口から滑り出したのは、今言わなくてもいい筈の言葉。はくたかは驚いた表情でしらさぎを見たが、すぐににこりと笑って、
「楽しみにしてる」
 それからすぐにはくたかはしらさぎの前から立ち去った。その後ろ姿が見えなくなるまで見送って、しらさぎは空を見上げる。先ほど降り始めた雪は勢いを増して降り続いていた。
 次第に視界が白く染まっていくのを眺めながら、叶えることが出来ない約束をしてしまった自分に溜息を一つ。はくたかもそれが叶えられない事だと分かっていたはずだ。
 雪は勢いを増して降り続いている。きっと明日の朝には富山駅も、金沢駅も、福井駅も、そして米原駅も真っ白だ。その中を走るのもまあ、悪くはないなと思うことにした。