春の空気は甘く
桜のつぼみがほころび、街の至る所で桃色の雲が見え隠れする季節。
分厚い雲に遮られていた太陽の光が、ようやく地上にまんべんなく降り注ぎ、気がつけば日中はじっとりと汗ばむほどの陽気だ。
「急に暑くなったよなあ」
上着を脱いだサンダーバードが、眩しそうに空を仰いだ。
「うわっ、何この部屋。暑すぎるんじゃない?」
後から部屋に入ってきたはくたかが、ぎょっとした顔をした。そんなはくたかに気づいたしらさぎは、顎で壁に備え付けられた空調機器を指すと、半ばげんなりした様子で言った。
「もう暖房はいらないから、切るように管理室に言ってくれないかなあ」
普段きっちりと制服を着込んでいるしらさぎも今日は珍しく上着を脱いでいた。こんなに良い天気で、降り注ぐ太陽の熱ですっかり温められた空気が充満している部屋に、更に暖房が点けられていたのだからそのような格好になる理由も分からなくはない。
「この季節は車内の空調も難しいよね。窓際でカーテン開けてればそりゃ暑いけど、日陰に座っている人は暑くないんだから」
「そうそう。誰もが皆暑いって思ったり寒いって思ったりしている訳じゃない。街を歩く人だって、コートを着込んだ人からもう初夏の格好をした人まで様々だ」
そう言いながら、しらさぎが窓の外に視線を向けた。それにつられるようにしてサンダーバードとはくたかも外を見る。
外は雲一つ無い快晴だった。こんな良い天気ならば、きっと走れば気持ちいいだろう。爽やかな風を全身に受けながら、真っ直ぐに延びた線路を走る。三人が三人とも自分の受け持つ経路を想像して、しばし無言になった。
「……なのに何でオレ達はこんなクソ暑い室内で仕事なんかしなくちゃならないんですかね」
「それを言っちゃ駄目だよサンダーバード。……俺だってそう思ってるし……」
「はくたかが珍しいこと言ってるなあ」
へぇ、真面目な君でもそんなこと考えるんだねとしらさぎが半ばからかうような口調で言うと、少し頬を膨らませて心外の意を表しながら、
「そんなこと無いよ。しらさぎは外行きたくないの?」
「もちろん、行きたいよ」
「なら、昼飯は外行こうぜ外!」
がたん、と勢いよくサンダーバードが立ち上がった。いいね、と言うのはしらさぎ。はくたかも頷いて同調する。
「じゃあ食堂のおばちゃんに弁当頼んで来るから!それ、オレ抜きで進めてて!」
二人の同意が得られた途端、待ってましたとばかりにサンダーバードは椅子が倒れんばかりの勢いで飛び上がり、そのまま部屋の出入り口に向かって走った。
「ちょっと、サンダーバード!?」
お前は仕事から抜け出すのが目的だろう、と言いかけた頃には、既にそこにサンダーバードの姿はなかった。こういうときだけは素早いんだから、とはくたかが愚痴をこぼすと、仕方ないなあとしらさぎが笑う。
「まあ、食料調達はサンダーバードに任せて、私たちは進められるところをやってしまおう」
「そうだね。でもあの勢いだと大阪まで弁当調達に行ってしまいそうなんだよなあ……」
「それは言えてる」
二人ははた、と顔を見合わせ、次の瞬間には盛大に吹き出していた。からからと笑い声が廊下にこぼれんばかりの勢いでひとしきり笑ってから、ようやく目の前に置かれた書類に目を通し始める事にした。
次の金沢支社の全体打ち合わせで使う資料を作れと言われたのが数日前。それも、それぞれが違う方面を担当しているサンダーバード、しらさぎ、はくたかの三名で協力せよとの条件付きだった。内容は簡単で、各方面からの観光客を誘致するための企画案を提示せよというものだ。
「有り難いことに、東日本も割と力を入れてくれているみたいでさ。週末なんか殆ど満席だよ」
「それは良かった。東海もまあ……悪くはないかな。でも、どちらかというと自社の「ひだ」の方をプッシュしたいみたいだ。まあ、高山線が全線で復旧した頃から分かってたことだけど、少し肩身が狭いなぁ」
口ではそう言いながらも、あまり気にした様子を見せないのはしらさぎだからだ。常に冷静で、飄々とした所があるしらさぎにはくたかは一目置いていた。
はくたかはここに来る前に作っておいた、乗客の推移や割合をまとめた資料を机の上に出した。ほう、と感心したようにしらさぎが溜息を漏らす。
「これだけ出来ていれば十分だよ。さすがははくたかだね。サンダーバードなんか酷いもんだよ。あいつ、全くやる気がないんだから……まあ、あっちはキャンペーンなんか打たなくても、十分乗客が見込めるんだろうけどね」
そうだね、とはくたかの相づちの声を最後に、ぱたりと会話は途絶えた。しらさぎははくたかがまとめた資料を、はくたかはしらさぎがまとめた資料をそれぞれ手にして、内容の確認をしていく。ごく稀に質問をする声が聞こえる以外は、紙を捲る音だけが響いていた。
いつの間にか暖房も止まっていたが、窓の外から差し込む太陽の光は相変わらずで、上着を着る気にはならなかった。そんな暑さも、書類に集中してしまえば全く気にならない。
微かにレールの上を走る電車の音が聞こえていた。がたんごとん、と特徴のあるリズムを刻んでいく。あれは何両編成の電車だろう。姿はここからでは見えない。特急だろうか、それとも各駅停車だろうか。丁度集中力が切れたタイミングだったので、はくたかの意識はすっかりそちらに移ってしまっていた。
「こらこら。もう読み終わった?」
声を掛けられてハッとすると、しらさぎがニヤリと笑いながら自分の方を見ている事にようやく気がついた。
「い、一応、終わったよ」
「それなら宜しい。……さっきの、私だよ。しらさぎ。今の時間だと名古屋行きだね」
考えていたことをずばりと言い当てられて、はくたかは咄嗟に言葉を見つけられなかった。
「まあいいや。それにしてもサンダーバード、遅いなあ。本気で大阪まで昼ご飯買いに行ったわけじゃないよね?」
「ま、まさか……って言ったのは俺だけど、でも」
否定しきれず、どうしたものかと思っていたその時、勢いよく扉が開いてサンダーバードが姿を現した。良かった、と内心思ったはくたかの声が僅かに大きくなる。
「サンダーバード!遅いから何やってるのかと……って、雷鳥さん!」
飛び出していった時とはまるで正反対、すっかりふてくされた様子のサンダーバードの後ろから、雷鳥がひょっこりと顔を出した。どうやらサンダーバードがふてくされているのは、雷鳥の所為らしい。
「どうしたんですか、一体」
「何、お前達がきちんと仕事をしているというのに、こいつが一人で食堂をうろうろしていたからな。少々お灸を据えてやったまでよ」
そう言って、じろりとサンダーバードの方を睨んだ。
「はは、そうでしたか」
しらさぎは苦笑いしながら、二人の顔を交互に見た。サンダーバードは黙ったまま、何とも言えない微妙な顔で床に視線を落としている。
「うるせぇ、ちょっと昼食の弁当頼みに行っただけだって言っただろ!それなのに何で二回も殴られないと……っ痛ってぇ!!」
咄嗟に振り上げられた雷鳥の杖に、あ、と言ったときには既に遅かった。三度目と思われる打撃がサンダーバードに襲いかかる。避ける間もなくその痛みを味わうことになったサンダーバードは、涙目になりながら必死に痛みに耐えていた。
「うっ……ぐ、あああ……」
「全く。これでわしの後継者だというから情けなくなるわ。それじゃ、わしは戻るから、お前達、こいつをしっかり見張っていてくれよ」
「は、はい」
まだ痛みに顔を歪めているサンダーバードを残して、雷鳥は部屋を出て行った。完全に扉が閉まり、再び部屋には三人だけとなった途端、キッとサンダーバードが顔を上げた。
「ちくしょう、なんだクソじじい!」
「そう言うもんじゃないよ、雷鳥さんのこと」
「そうだよ。そもそも君がおやっさんを怒らせたんだろう?」
味方をしてもらえると思った二人にやんわりと窘められて、サンダーバードはよほどショックだったのだろう、元々痛みの所為で涙がにじんでいた目に更に涙が上乗せされる。
「だ、誰の為に弁当……頼みに……」
「分かってるよサンダーバード。でもまあ、今は仕事中だからね」
がっくり項垂れたサンダーバードの肩をぽん、としらさぎが叩いた。分かってるけどさあ、と言いながらもまだ納得がいかない様子のサンダーバードに、はくたかは言った。
「で、雷鳥のおやっさんに怒られてまで頼んできたお弁当はどうなったの?」
その言葉を聞いた途端、待ってましたとばかりにサンダーバードの顔がぱぁっと明るくなった。聞いてくれるのを待っていたのだと全身からオーラを出しながら、
「もちろん、しっかり頼んできた!ちゃんと作ってくれるって!」
「それじゃ、ランチは予定通り外で食べられそうだね」
しらさぎがにこりと微笑む。うん、とはくたかも嬉しそうに頷いた。そんなはくたかの様子を見て、サンダーバードも満面の笑みを浮かべる。
「それじゃ、あと少し頑張ろうか」
「よし!」
桜の下で食べる弁当に思いを馳せながら、三人は昼食までの残り少ない時間、与えられた仕事に没頭することにした。