いつかはやって来る
1997年、10月。
「寂しくなったなあ」
ほい、と差し出された缶コーヒーを黙って受け取った雷鳥は、プルトップを空けて一気に煽った。
「……別に」
「またまた。無理しちゃって」
しらさぎは座らず、立ったままコーヒーを一口、口に含んだ。独特の苦みが広がっていくのを感じながら、正直お茶の方が好きだ、と思う。が、無性にコーヒーが飲みたくなる時だってあるのだ。
例えば、長年の知り合いがいなくなった時だとか。
しかし自分よりも更に気を落としているのは、隣に座る雷鳥だった。北陸本線の代表的な特急としてやって来てからずっと、リーダーとして振る舞ってきた男の背中が、寂寥感を滲ませるようになったのはいつからだったか。
「はくたかがいなくなったときより寂しそうだぜ、おまえさん」
「そんなことあるか」
自分たちより少し若い、真っ直ぐな男は去り際も潔かった。歳を取ってもなお真っ直ぐに伸びた背筋がそれを象徴していた。僅かな荷物と共に金沢から去っていった白山は、今頃どうしているだろうか。
「白山がいなくなって、あれだ、張り合いが無くなった、ってところかね。まあ、あんまり気落ちするなよ」
ぽん、と肩を叩くと、お前は何でもお見通しなんだなと雷鳥がぼやいた。笑って明確な答えは返さないまま、しらさぎは雷鳥を残してその場を後にした。
雷鳥としらさぎは同期だ。同じ年の同じ日に新設されて、雷鳥は北陸と大阪方面を、しらさぎは北陸と名古屋方面を結ぶ特急として今まで一緒に頑張ってきた。時代が過ぎ去り、親会社が分割された後も幸い同じ会社に居残ることが出来たしーー雷鳥と殆ど同じルートを走っていた北越は、ルートも変わって、気がつけば隣の東日本所属になっていたーーこの年まで同期がいたことは自分の人生において幸せな事だと思う。
空になったコーヒーの缶をゴミ箱に投げ入れて、ちらりと後ろをふり返った。まだ雷鳥は落ち込んでいるのだろうか。
新幹線の開業と共に消えていった仲間達。雷鳥が執着していたはくたかも引退した。その時の雷鳥の様子は見ているこちらが辛いほどだった。雷鳥がはくたかの事を好きだった事を知っていたから、気持ちは痛いほど分かったし、何日もやけ酒に付き合ったのも今となってはいい思い出だ。
そして今年の秋、古い仲間の一人である白山の引退が決まった。本数の多いしらさぎや雷鳥と違って、一日数本しか走っていない、東京と北陸を結ぶ特急。上越新幹線の開業で大分客を奪われたと聞いていたが、それでも特徴のある顔で沿線の皆に親しまれていたという。そんな彼も、ダイヤ改正と共に金沢を去っていった。
こうして仲間が消えていくのを見送るのは辛い事だ。もう何人も見送ってきた雷鳥としらさぎは、互いにいつ自分の番が来るのかと怯えながらも、最後の一人になる前に引退したいと思っている。
もちろん、去るものがいれば新しく仲間になるものもいる。雷鳥にもサンダーバードという横文字の名前を持った後継者が出来た。サンダーバードは時を同じくして復活した若いはくたかと仲がよいらしい。二人で楽しげに話している所を見ると、ああ、自分たちにもあんな時代があったのだと、胸の奥がむず痒いような気持ちになるのは、年老いた所為だろうか。
そして、次に引退するのは雷鳥ではなく、自分だろうということにしらさぎは薄々気づいていた。
だてに情報通を名乗っていない。中部地方の車両メーカーで新車の建造が進んでいるという事を聞いてから、噂でしかなかった引退話がぐっと真実味を帯びてきた。新車はサンダーバードや今のはくたかの車両の改造版だという話も耳にした。
いよいよか、と思う反面、ようやく、とも思う。長年走り続けて不都合が出てきた身体にも別れの時期が近づいている。まだ立ち上がる気配の無い雷鳥を一瞥して、悪いな、と内心呟いた。
***
時は流れ、2003年2月。
「お前まで引退してしまうのか」
がっくりと肩を落とした雷鳥は、恨めしげにしらさぎを見る。苦笑しながら、私の方が早かったねえ、と言えば、また一人いなくなると言って雷鳥は本気で泣きそうな顔をした。
「今すぐではないけど。後はこっちの『しらさぎ』を宜しく頼むよ」
「宜しくお願いします」
ぺこりと頭を下げた若者は、サンダーバードやはくたかよりも少し年上らしかった。柔和な表情に潜む切れ者の雰囲気に、雷鳥は苦笑した。まるで、しらさぎの若い頃にそっくりだったから。
「まったく、どいつもこいつも、どうして似たヤツばっかり探してくるのかね……」
「その言葉、そっくりお前に返すよ、雷鳥。サンダーバードだってお前にそっくりだ」
「そんなことあるか。わしは少なくともあいつよりは出来てたぞ」
「どうだか。はくたかの事ばっかり考えて憂鬱になっていたのは誰だったかな?」
「しらさぎ、おまえ……!!」
今にも殴りかからんばかりの雷鳥を宥めながら、隣に立つ若者の方を見る。
「私は夏で引退するけど、何か分からないことがあればこの雷鳥を頼ればいいから」
「はい」
その時、向こう側から見知った顔が歩いてくる事に気づいたしらさぎは、おーい、と手を振ってその人を呼び止めた。
「何だよ、しらさぎ。私は忙しいんだから」
「悪いな北越。いいところに歩いてくるからさ。で、こいつ、夏前のダイヤ改正で、私の代わりにしらさぎになるから。宜しく」
再びぺこりと頭を下げる若者を、遠慮無く頭の先からつま先まで眺めた北越は、ほぅ、と溜息を漏らす。
「さすがに手堅いね。いい後輩見つけてきたじゃない」
「そりゃどうも。しっかし、北越に褒められるとは思わなかった」
「私だってねぇ、何でもかんでもけなしてる訳じゃないよ……って、どうしたの、雷鳥」
気落ちしている雷鳥に気づいた北越が、顔を覗き込む。だってよ、しらさぎがいなくなるんだぜ?と少し水気を含んだ声で言う雷鳥に、北越はやれやれ、と呆れた様に肩を竦めた。
「白山の次はしらさぎねぇ。時代は流れていくものだから、仕方ない……でも、古い世代はとうとう私と君だけか。寂しくなるな」
その一言でしんみりとし始めた空気をぬぐい去るように、「じゃあ、私は行くよ」と北越は努めて明るく言った。おう、忙しいところどうも、としらさぎが言うと、北越はにわかに顔をしかめた。
「君は本当に嫌なヤツだな。本当は忙しくないことくらい分かってて言ってるんだろ」
「知ってたけどさ、自分で忙しいって言ったじゃないかお前」
悪びれずにそう言ったしらさぎに、北越はあっさりとしかめた顔を崩した。やっぱり君には敵わないな、と言いながら。
元々用事のあったらしい事務棟へ向かって歩いていく北越の後ろ姿を見送りながら、しらさぎは思う。
こうして年取った仲間が一人ずつ消えていく。自分だって慣れ親しんだ仲間や駅舎、線路から離れるのは怖いし寂しい。それでも、いつかはやって来るその時までの限られた時間を、仲間と、乗客と、自分の運転に携わる多くの職員に囲まれて過ごしたい、と思うのだ。
「ほら、雷鳥。元気だしなよ。私は他にも挨拶回りがあるから行くよ」
「わかった。今度時間作って飲みに行こうな」
「ああ。そうだな」
ひらりと手を振って、若者を連れたしらさぎはその場を離れた。そして、酒に酔って昔話をするのも悪くないな、と行きつけの飲み屋のカウンターを想った。