夏という季節は


「あちぃ……」
 見えないところで夏服の襟元を少し緩め、サンダーバードはぼやいた。
 ここ一週間ほどは全国的にぐずついた天気が続いており、曇りの日も多かったから割合過ごしやすかったのに、今日になって一気に気温が上がった。今までとは違う、熱をふんだんに含んだ風に晒されながら思う。夏が来た、と。
 七月の連休以降、夏休みという行事を控えてサンダーバードたちは忙しくなる。利用者もぐんと増えるし、ピーク時であるお盆の時期は増発だって予定されていた。面倒くさいと思わないでもないが、上の方針なのだから仕方がない。
「あー、オレもう駄目」
 そのまま休憩室になだれ込む。クーラーが効いているらしく、外よりは大分過ごしやすい。が、ここ数年の傾向により、もれなくこの部屋も設定温度は高めに設定されていた。しかも、温度設定を変えようとすると端末がパスワードを聞いてくるという念の入れ様だ。こんな事をするくらいなら新しい車両の一つや二つ作ってくれてもいいじゃないか、とぼやいてみる。
 その時、ふと思い出した。唯一、クーラーの設定を自由に変更できる部屋があったことを。
 サンダーバードは休憩室から飛び出すと、一目散にその部屋へ向かった。


「あれ、サンダーバード。こんな所で何やってるの」
 両手に書類を抱えたはくたかがやっとの思いで扉を開けたとき、誰もいないはずの部屋に見知った顔がいた。思いもしなかった事態に、手にした書類を落としそうになるのを何とか堪える。
「よう。ちょっと、休憩」
「ちょっと休憩って……それなら休憩室に行けばいいだろ」
 抱えた書類を机の上に置くと、それをそれぞれの席の前に並べているはくたかに、サンダーバードは不満げな声を返す。
「あそこ、暑いんだよ」
「でもエアコンが掛かってると思うけど。って、ここ!設定温度低すぎだよ!」
 何気なく視線をやったエアコンパネルに表示されている設定温度の低さに、はくたかは目を丸くした。そして、ようやくサンダーバードがここにいる理由を悟り、顔をしかめてそちらを見る。
「……別に暑いのはお前じゃないんだけど」
「じゃあいいじゃん」
「良くない!!大体今から会議なんだから、出て行ってくれないと困るよ」
「あれ、オレの出なくていい会議?」
「うん。東京方面の電車だけだから」
 ということは、ときも来るのだろうか。はくたかが気にしている新幹線も。わざわざここまで?
 急に面白くなくなったサンダーバードは、勢いよく椅子から立ち上がった。
「あっそ」
「……なんだよ、何で怒ってるの」
「怒ってねぇよ」
「怒ってるだろ!」
 暑くて苛々してるのは君だけじゃないんだから、というはくたかの呟きが耳に届いた瞬間、衝動的にはくたかに抱きついていた。苛々すればいい、はくたかがサンダーバードに苛々するのなら、少なくともその間はときのことではなく自分の事を考えていてくれるのだから。
「ちょっと、暑い」
「オレだって暑い」
「なら離れろよ」
「いやだ」
「何なんだ、サンダーバード。今日機嫌悪いの?」
 軽く溜息を吐いて、だらんと下に落としたままだった手を持ち上げたはくたかが、背中を二度叩いた。うん、そう、機嫌悪いんだと言いながら、はくたかの首筋に顔を埋めたままじっとしている。下げすぎた室温が幸いして、こうしていてもそこまで暑くない。
 逆にはくたかは降って沸いたこの状況をどう扱えばいいのか分からず、困り果てていた。取りあえずサンダーバードに離れてもらわないことには会議の準備も進まないし、第一他の人にーー特に「とき」にーー見られたと思うと気が気ではない。
「サンダーバード、もう時間だから。離れて、ね?」
 出来る限り優しい声色でお願いしてみるが、あっさりと却下されてしまった。
「嫌だ」
「本当に、何なんだ一体」
「……別に」
 まともに答えようとしないサンダーバードに、はくたかは万策尽きた、と思ったが、すぐにふと思い立ってある人の名前を出した。
「あんまりに酷いと、雷鳥に言うよ?」
「それは、困る」
 あのじいさんに見つかったらまた何を言われるか分かったもんじゃない、と思ったサンダーバードは、仕方なくはくたかから離れた。名残惜しげに貼り付いたままの指がはくたかの首筋をくすぐる。何するんだ、とくすぐったそうに身を捩って、はくたかが笑う。
 こうして笑っていてくれればいい。いつでも、いつまでも。後何回はくたかと一緒に夏を過ごせる?……数えるのは止めようと思っているのに、どうしてもその事が頭を掠める。
 今日だって、きっと北陸新幹線が出来た後の会議。本筋は決まっているのに不毛だと思うが、上からの命令には従うしかない。はくたかに同情しながら、サンダーバードは最後の指をはくたかから離した。
「仕方ない、邪魔者は退散する」
「もうすぐ出発時間だろ、大阪行きの」
「いいんだ。次の電車には乗らないから」
 ベテランの運転士だから大丈夫、と言って、サンダーバードは出口の扉に手を掛けた。が、くるりとはくたかの方に振り返ると、
「あんまり舞い上がるなよ、ときが来るからって。ネクタイ、曲がってるぜ」
「ええっ!?」
 慌てて首元に手をやったはくたかを笑って、部屋から出た。そして再び休憩室に向かう。
 その時、向こう側から見知らぬ集団ーーと言っても五人ほどだったがーーが歩いてくるのが見えた。サンダーバードが背にしている方向には、先ほどの部屋を含めて複数の会議室があるだけだ。何かの打ち合わせの客だろう、と思って適当な会釈ですれ違おうとしたとき、聞き慣れた名前が聞こえてきた。
「とき、今日はどうしてわざわざ金沢まで?君らしくない」
 集団の中から飛び出し多質問に、ひときわ背の高い男が答える。サンダーバードは咄嗟に立ち止まり、くるりと振り返った。彼らはサンダーバードの事など気にも止めていないようで、こちらを見ようともしない。
 新大阪で見るのぞみやひかりとは少し異なる制服を着た男は、笑いながら言った。
「在来なんか興味ないから、普通なら来ないんだけど。でも、今日はあさまも来てるから」
「そうか」
 違いない、と笑う男も気に入らなかったが、何よりときと思われる男が気に障って仕方がなかった。こいつが、あのはくたかが夢中になっている男だとしたら、趣味が悪いと言わざるを得ない。
 殴りかかりたいのを必死で堪えながら、彼らが先ほどまでサンダーバードがいた会議室の中に消えていくのを見て確信した。あいつが、上越新幹線「とき」だと。
 はくたかはときが「在来線に興味がない」と言っていることを知らないのだろうか。
 思いがけずして件の人を見ることが出来たサンダーバードだったが、はくたかの事を思うと、その心には不安が広がっていくばかりだった。まるで、夕立を呼ぶ雲のように。