ひとりにしないで


 二月になって、一気に雪が降った。福井から米原辺りにかけての豪雪地帯を走る列車は軒並み遅延もしくは運休。もちろんそれはしらさぎもサンダーバードも例外ではなく、普通電車以下の速度で凍ったレールの上を走っていた。
 横殴りに吹き付ける雪に体力を奪われるのを自覚しながらも、サンダーバードは大阪からの最後の乗客を乗せて真っ暗闇の中を走っていた。本来ならばとっくに運転は終わっている時間だというのに、乗客を乗せたまま途中で停まるわけにはいかないと駅間の灯りを頼りに前だけを見るようにしていた。
 しらさぎはサンダーバードの少し先を、同じようにゆっくりと走っている。姿は見えなくとも、無線でその状況は伝わっていた。苦しんでいるのは自分だけではない、ということが、サンダーバードに僅かな勇気を与えてくれる。
 ますます風は強くなり、ごうごうと音を立てて雪を伴いサンダーバードの視界を遮る。数メートル先の信号機が見えないほどの吹雪の中、サンダーバードは一瞬はくたかの姿を見た気がした。
 いいや、これは幻覚だ。熱が上がってきたのか、と思う。大阪を出る前に計った熱は三十八度に少し足りない程度。だからまだ寒気だけで済んだのだが、ここにきてそれに頭痛が加わった。寒気はとっくに限界を超えて気を緩めれば失神してしまいそうなほどだ。吐き気が無いことだけが唯一の救いだった。
『次は、終点の金沢、金沢。大雪のため、およそ一時間三十分遅れての到着になります。お客様には大変ご迷惑を……』
 靄が掛かった頭に、待ち望んだアナウンスが聞こえた。小松を出て、後は終点の金沢を目指して走るのみ。しらさぎはきっともう到着したのだろう。
 後数キロの距離を走るため、サンダーバードは寒気と頭痛に気づかない振りをして走り続けた。


 足下がおぼつかない。視界が歪んでいる。
 それでも何とか宿舎の自室にたどり着けたのは、駅ではくたかが待っていてくれたからだ。
「おかえり、サンダーバード」
 ホームの端にその姿を見かけたとき、サンダーバードの意識は途切れる寸前だった。が、最後の力を振り絞りホームに停車すると、長時間の乗車に疲れた人々の声はかき消え、代わりにはくたかの声だけが聞こえた。
「お疲れ様」
 たった一言の労いの言葉だったけれど、サンダーバードには何より嬉しい言葉だった。
「ただいま、はくた、か……」
 駆け寄ろうとして、足がもつれた。そのままバランスを崩して倒れ込むのをはくたかが支えてくれる。思いの外しっかりした腕に抱き留められて、その温もりが冷えた身体にしみた。
「大丈夫か!?」
「あ、ああ……ちょっと、風邪引いたみたいだ」
 はくたかはもう片方の手をサンダーバードの額に当てると、その熱さに驚いたようにして手を離す。
「ちょっとじゃないよこの熱!どれだけ無理してたんだ、この馬鹿が!」
「そんなこと言っても、乗客を運ぶのがオレたちの仕事だろう!?」
「倒れたら元も子もないんだよ!」
 早く帰ろう、と引きずられるようにして駅を後にしたのが十分ほど前。そして、今二人はサンダーバードの部屋の前にいた。
「早く鍵、出して」
「ちょっとまてよ……あった…」
 サンダーバードがやっとの思いでポケットから引っ張り出したキーケースをひったくると、些か乱暴に鍵を開けたはくたかは、サンダーバードを部屋の中に押し込んだ。続いて自分も一緒に部屋の中に入ると、まずはサンダーバードが着ていたコートを脱がせてハンガーに掛ける。雪の水分を含んだそれはずっしりと重く、明日までに乾くかも怪しい。ヒーターの出力を最大にして、コートを掛けたハンガーの下に置いてやった。
「着ていた服全部脱いで、着替えるんだ」
「お前、今日はやけに積極的……」
「なに訳の分からないこと言ってるんだよ!早く着替えないと身体が冷えるだけだろう!?」
 疲労と、熱と、頭痛とで思考が正常に働いていない。ただ、目の前ではくたかがすごい剣幕で怒っているのが分かったので、取りあえず指示に従うことにした。オレはまた何をしてはくたかを怒らせてしまったのだろう、と考えてみるも理由が思いつかない。
 しっとりと濡れたシャツは身体に貼り付いてなかなか離れてくれなかった。そのうちはくたかも手伝って、すっかり衣服を剥ぎ取られたサンダーバードは、はくたかがずい、と差し出したタオルを手に取る。
「これでオレにどうしろと?」
「身体を拭けって言ってるんだよ!」
 何で分からないんだと怒っているが、サンダーバードにははくたかが怒っている理由の方が分からなかった。しかし怖いので、素直に指示に従っておく。
 濡れた身体にタオルの肌触りが心地よい。サンダーバードが身体を拭っている間に、はくたかは勝手にクローゼットを開け、ごそごそと何をしているかと思えば勝手に下着と服を引っ張り出してきた。はくたかの行為ーー勝手にクローゼットを開けた事ーーに対してあれこれ言う余裕などサンダーバードには無い。黙って差し出されたそれを見て、着ろと言うことらしいと悟ったサンダーバードは、再び怒られる前にそれを手にとって身につける。
 乾いた身体に乾いた衣服を身につけても寒気は一向に治まる気配がない。ベッドの上掛けを捲り上げ、中に身体を横たえると、幾分か楽になった気がしたが、それでもまだ寒い。身体を丸めてがたがたと震えていると、ちょっと待ってて、と言い残してはくたかは部屋を出て行こうとする。
「待った」
「予備の毛布持ってくる……それ一枚じゃ寒いだろう?」
 目の前にある自分の手を握って、離そうとしないサンダーバードにはくたかは困った表情を浮かべる。ヒーターのお陰で大分部屋は暖かくなったけれど、もっと温めなければ眠ることも出来ないだろう。余っている毛布が役に立てば、とはくたかは思ったのだが。
「離して、サンダーバード。俺の部屋から毛布持ってくるだけだから」
「嫌だ……オレの前から、いなくなるな……オレのこと、置いていくな……はくたか」
「サンダーバード……」
 自分が何を口走っているのか、サンダーバードには分からなかった。ただ、掴んだ手の温もりが離れていくのが怖くて、何とかつなぎ止めたくて必死になっていた。
「嫌だ、嫌だ……」
 小さな子供のように何度も繰り返す。はくたかがいなくなるのが嫌だ、と。
 はくたかは毛布を取りに行くことを諦めた。そのままベッドサイドに腰を下ろすと、握られていない手の方でサンダーバードの髪を撫でる。
「俺はここにいる。ずっと、いるから」
 そう言いながら髪を撫で続けるはくたかの顔は、何処か寂しそうだった。しかしサンダーバードはその事に気づく余裕もなく、ただ手の中にある温もりだけを頼りにして目を閉じる。
 暫くして身体の震えが止まり、寝息が聞こえてきた事を確認して、そっとはくたかは握られた手を解いた。そのままありったけの氷で冷やした水にタオルを浸し、固く絞ったそれをサンダーバードの額に乗せた。薬も飲ませたかったのだが、眠ってしまったのであれば仕方がない。
「……ごめん、サンダーバード」
 約束は、果たせない。例えそれが熱に浮かされた言葉だとしても、その約束を果たすことが出来ない。ずっといっしょにいることは出来ないのだと分かっているはくたかは、苦しさにぎゅっと服を握りしめた。


 誰かの気配がして、サンダーバードは身動いだ。
「おはよう、気がついた?」
 サンダーバードが目を開けると、自分を覗き込む顔がある。ぱちぱち、と目をしばたたいて、それがはくたかの顔だと認識した。
「はくたか……、オレ、あれ?」
「覚えていない?昨日帰ってきた途端熱出して倒れたんだよ」
 そう言われても、何も思い出せない。確か、ホームに入ったときにはくたかの顔が見えて、それから……記憶がない。何か大切なことを口に出した気がするのに、それが何だったのか全く心当たりが無かった。それとも、あれは夢の中の事だったのだろうかとすら思う。
 そんなサンダーバードを、はくたかはほっとしたように見下ろしていた。
「てか、何でお前ここに」
「気になったから、様子見に来た。しかし、その様子だと今日は無理そうだな……」
 温くなったタオルを手に取り、その額に手を当てる。昨日ほどではないにしても、まだ僅かに熱い。念のためにこれ食べて薬飲んでよ、とはくたかが差し出したのは、ゼリー飲料だった。アルミのパッケージが冷たいそれを受け取って、素直に口に運ぶ。甘いゼリーがゆっくり胃に染み込んでいく気がした。
 薬も飲むんだよ、とはくたかはテーブルの上に錠剤と水の入ったグラスを置いた。
「上には俺から連絡しておくよ。サンダーバードは風邪を引いて動けません、って」
「……雪はどうなった?」
「まだ降ってるし徐行運転は続いてる。でも、雷鳥のおやじさんが頑張るって言ってたから大丈夫だと思う」
「そうか……」
「取りあえず休んでしっかり治さないとね」
 じゃあ、俺は行くから、と言うはくたかの手を、サンダーバードは咄嗟に掴んだ。その時、前にもこんな事があったような錯覚を覚える。横たわる自分が立ち去ろうとするはくたかの手を掴んだ感触が、手のひらに蘇った気がした。
「……何?」
 一瞬、はくたかの手が怯えたように震えたのは気のせいだろうか。
「いや、何でもない……」
 何のために手を掴んだのか思い出せないサンダーバードは、その手を離した。ほっとしたように息を吐いて、はくたかは部屋を出て行った。
 閉まった扉の向こうで、はくたかが溜息を吐いている事を、サンダーバードは知らない。